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先生、学内政治が本業ですか? 大学にはびこる「残念な教師」の実態
100年前も今も変わらない…

大学の病理

筆者は、外務官僚時代にモスクワ国立大学哲学部と東京大学教養学部で教鞭をとったことがある。現在も複数の大学で講義を担当している。

講義をすること自体は面白く、意欲的な学生との知的交流はとても有益だ。優秀な若者たちの姿を目の当たりにして、日本の未来は大丈夫だと安心する。

しかし、大学教授には、学問的な業績もなく、教育的能力も低く、いったい何でこんな輩が大学にいるのかと疑念を抱くような教員が引き起こす無意味な出来事がときどきある。

今のところ「はい、はい」とおとなしく話を聞きながら、そのうち筒井康隆氏の『文学部唯野教授』のような作品を、小説ではなくノンフィクションで書いてみようと思ったりする。

 

近代的な大学の病理がどこにあるのかを考える材料として、学問論の古典である『職業としての学問』は有益だ。

大学がアカデミズムの外部から招いた客員教授には多かれ少なかれ「客寄せパンダ」の要素がある。それだから、受講生が多くなる傾向があるが、それが「なんであんたの講義はそんなに受講生が多いのだ。他の教授との横並びを考えろ」などという批判を受ける原因になる。

ウェーバーは、この問題について次のように述べる。

〈問題は、ある教師のところへばかり学生が集まるということの原因が、多くのばあい、その人の気質だとか、またはたんなる声の調子だとかいうような、外面的な事柄にあるということである。しかも、出席数がいかにこれらの外面的要素によって左右されるかは、ちょっと人が本当にしないくらいである。

この点と関連して、わたくしは多年の経験と冷静な考察から、一般に大勢の学生を一堂に集めてする講義の価値を疑うものである。もちろん、それをやめてしまうわけにはいかないであろう。また、それは民主主義教育の当然の帰結でもある。

だが、われわれは学問的訓練が、ドイツの大学の伝統が示すように、本来アリストクラティックな仕事であることを認めざるをえない。他面では、もとより、学問上の諸問題を、頭はあるが未訓練の人々に理解させ、かつ——われわれにとってはこれこそが大切なのであるが——これらの問題をみずから考えていくように解説するということは、おそらく教育上もっとも困難な課題であろう。

それはたしかであるが、しかしこの課題が果たされているかどうかは聴講者の数によってきまるわけではない。当面の話題に戻っていえば、こうした解説の技術は結局個人的な天賦であって、これはなんら学者としての資質と一致するものではないのである〉

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