「幻の城」安土城。400年の時を経て明らかになった真実とは?

核兵器にも似た抑止力を備えていた…

天皇に改元と譲位を要求したことで知られる信長が、「富と権力の象徴」に込めていた政治的意図とは何か。天守構築や金箔瓦使用の規制・許認可、破城・築城――。城郭政策の視点から「戦国の覇王」の実像に迫る! 

イラスト:宮下英樹

軍事機能は「二の次」だった

天正4年(1576)正月中旬のことである。

織田信長が重臣丹羽長秀を呼びつけ、琵琶湖畔の安土山(滋賀県近江八幡市)に未曾有の城の築城を開始するよう、命じた。

また、信長は、翌月23日には早くも居を安土に移すいっぽう、家臣の馬廻衆に安土山の山下に屋敷地を与え、各自の裁量で住居を築くよう指示している。

安土山は、琵琶湖との比高差約100メートル、総面積約90ヘクタールの低丘陵である。そこに信長は、時の覇者が誰であるかを知らしめるべく、日本初となる「全山総石垣」の城の構築をめざした。『信長公記』には、「4月1日から、安土山の大石で石垣を築き始め、その中に天主を造営することを命ずる」とある。

こうして当時の技術力の粋が総結集された安土城は、明らかにそれまでの戦国大名の城とは一線を画す建築物として、天正7年(1579)に完成した。

注目すべきは、軍事機能を放棄し、統一の象徴として「見せる」ことに重点が置かれていた点である。その代表が、最高所に築かれ信長自身が命名した「天主」という名のシンボルタワーだ。

天主は、それまでの城には存在しなかった巨大な高層建築物で、外観五重、内部は地上6階、地下1階で信長の居住空間の一部として築かれ、室内は豪華絢爛な姿であった。

そもそも、合戦が日常化していた戦国期の城は、とりあえず戦闘に耐えうる箇所の完成が最優先されていた。そのため、信長のように、専門技術者集団を結集させ、何年にもおよぶ工事を経て完成させるという発想を持つ戦国大名は皆無であった。

しかし安土城は、数ヵ国から何千人もの人々を動員し、3年余の日々を費やした末に竣工。まさに戦国の常識を根底から覆す、「国家的プロジェクト」だったのである。

「幻の城」――その理由

宣教師ルイス・フロイスらの書簡等によって、ヨーロッパにまでその名をとどろかせた安土城であったが、完成からわずか3年余、主である信長が本能寺に倒れると、まるで後を追うかのように放火され炎上。地上から姿を消し、安土城は「幻の城」となってしまう。

現在、残されたわずかな資料が、断片的にその姿を伝える。それらの資料を大別すれば絵画資料と文献資料、そして発掘調査で出土した遺物や確認された遺構の3種類である。

なかでも、もっとも有名でかつ克明に城の姿を伝えるとされる資料は、信長が当時、日本でもっとも著名な画工(狩野永徳か)に描かせた「安土山図屏風」であろう。信長の命で、実物と寸分違わぬよう詳細に描いたと伝わる屏風は、宣教師ヴァリニャーノを通じ、最終的にローマ教皇グレゴリオ13世に献上されたという。

ところが、この二曲一双の屏風はバチカン宮殿「地誌廊」に展示された後、行方不明となったまま、現在に至っている。屏風もまた「幻の安土山図屏風」となり、人々が追い求めることになっていく。

後世多くの人が、この「幻の城」の姿を判明させたいと願い、数多くの復元案を世に示した。だが、いずれも「確実」とは言い難い。なぜなら、本当の姿かたちを伝える資料が残されていないからである。

書店の店頭には、12月14日ごろから並ぶ予定。帯のイラストは、累計750万部超を誇る「センゴク」シリーズでおなじみの宮下英樹氏による渾身の描き下ろし

信長の政治的意図とは

そこで、平成元年から足掛け20年にわたって、滋賀県が安土城跡の発掘調査を実施したところ、城の解明に必要な手がかりが増加した。とはいえ、その本当の姿は未だ霧の中である。むしろ、発掘調査の進展で、新たな謎が加わってしまった。調査すればするほど、その姿は逃げ水のように、なかなか近づくことができない。

今回、そうした断片的な手掛かりと、安土城以前に築かれた小牧山城(愛知県小牧市)と岐阜城(岐阜県岐阜市)の発掘調査をもとに、私もまた「幻の城」へ挑んでみた。それが、このたび上梓した『織田信長の城』(講談社現代新書)である。

「見せる」ことに特化させた安土城が、従来の城ともっとも異なるのは、全山に積み上げられた石垣と、最高所に聳え立つ天主建築である。