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野球
ドキュメント戦力外通告〜元ドラ1たちの決断。松坂世代のあの人も
まだまだ人生は続く

ドラフトの日にまばゆいばかりのフラッシュを浴びた選手たちが、今年も非情な宣告を受けた。潔く身を引くのか、それともトライアウトに懸けるのか。男たちがそれぞれの決断を下すまでを追う。

まだ限界とは思ってない

「僕には6歳と4歳の娘がいて、今季最後の登板となった9月19日の二軍戦・巨人戦に嫁さんが二人を連れて戸田の球場に見にきてくれました。

二人の娘は、僕がどんな仕事をしているかはまだ理解できていません。でもすごく後押しされた気がして、3回無失点と抑えられました。やっぱりもう少し頑張って、何とか一軍で投げている姿を二人に見せたい、という気持ちなんです」

新垣渚(36歳・前ヤクルト)は、遠くを見つめながら、しんみりと語った。戦力外通告を受けた時のことを、新垣は振り返る。

「練習が終わって帰宅途中にマネージャーの方から電話が来て……。すぐに埼玉・戸田にある二軍の寮に引き返しました。『ああ、ついに来たか』という感じでしたね。
年齢も年齢なので、来るだろうな、という予測はしていました。

今年、二軍ではずっと投げていましたが、一軍で6試合チャンスをもらいながら、思うような結果は出なかった。6月以降ずっと二軍で、9月に入ってから嫁さんには『ヤクルトでは今年で終わりかもしれんね』という話はしていました」

新垣は、横浜高校で甲子園を沸かせた松坂大輔(ソフトバンク)と同学年で競い合ってきたライバルだ。沖縄水産高時代から剛腕として知られ、当時記録したMAX151キロは投手の逸材がそろった「松坂世代」でも最速だった。

 

新垣は同じ九州の福岡ダイエーホークス(現・ソフトバンクホークス)でプレーすることを熱望し、高校卒業後の進路は「ホークス以外なら大学進学」と決めていた。

しかし高校3年時の'98年のドラフト会議では抽選の結果、オリックスが交渉権を獲得。交渉は難航し、その後、当時の三輪田勝利編成部長が自殺したことなどから、大騒動となった。

「今でも、心の整理がついたわけではありません。当時は高校生で精神的にも強くはなかったので、ノイローゼになって、ふさぎこみました。生きていてつらい、と感じた時期でもありました。

でも、『自分の気持ちに嘘はつきたくない』という一心で生きてきた、その姿勢は、当時から今に至るまで変わりません。

戦力外通告を受けた後も、『引退』を考えなかったのは、今年ずっと投げられていたし、娘たちへの思いもあるからです」

'03年にホークスへ入団した新垣は150キロ近い直球と、鋭く曲がるスライダーで1年目から一軍で活躍。2年目の'04年にチーム最多の11勝をあげ、その年から3年連続2ケタ勝利をあげた。

しかし、'08年以降は肩に異変を感じながらも投げ続けて故障。'14年にヤクルトに移籍後も、本来の剛速球は戻らなかった。

新垣は11月12日、甲子園球場で開催されたトライアウトに参加。最年長の38歳、前楽天・後藤光尊ら65選手が参加したテストの場で登板。直球のMAX140キロと高校時代より11キロ遅かったが、全7球に気持ちを込めた新垣の表情は穏やかだった。

「もし声がかからなければ引退です。期限は今月いっぱいと考えています。投手としての限界は感じていないけど、引き際も考えないといけない」〔後注:11月末に引退を表明〕

あのチャンスを逃さなければ

新垣が入団した6年後にソフトバンクからドラフトで1位指名された巽真悟投手(29歳)は、ドラフト会議が行われた2日後の10月22日、非情な宣告を受けた。来季に備えて練習していた最中の出来事だった。

「若手中心の二軍のフェニックス・リーグに参加するために10月上旬から宮崎に行き、福岡に戻ったのが16日。その後も練習をしていました。

ただ、全く予測してなかったわけではないんです。今年は二軍で夏以降、成績が良くなって、上げてもらいたい、と思っていても、自分より打たれている他の投手が呼ばれたりしていましたから」

近大では2年春からエースとして活躍。入団後は同窓の先輩・大隣憲司らと並ぶ、先発陣の一角を期待された。しかし、層の厚いソフトバンク投手陣の中で、ローテーションに入ることは容易ではなかった。つかみかけたチャンスを逃した過去を悔やむ。