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42歳「脳が壊れた」ルポライターのその後〜私が障害を受容するまで

大病後も人生は続く

トイレでこっそりゼリーを食べる

昨年初夏、41歳で脳梗塞に倒れた。

幸い一命は取り留め、血圧や血液の状態などを改善維持すれば再発リスクはそれほど高くないというが、左半身に軽度のマヒと、構音障害(呂律障害)、そして高次脳機能障害(以下「高次脳」)という聞きなれない後遺障害が残った。

リハビリを経て比較的短期間で回復したのは、身体や口回りなどフィジカル面のマヒ。ところが一方の高次脳については感情の抑制困難や注意障害・遂行機能障害が複雑に絡み合った形で残存し、結果として「声は出るのにうまく人と会話できない」という、取材記者としては少々致命的な状況になった。

定まらぬ視線、能面のような表情と、震えがちで吃音も伴う弱々しい声……。

自分の意図するコミュニケーション表現ができない苦しさとの戦いの日々が始まったが、一方で期せずして得ることになった高次脳の当事者認識がそれまで取材対象者としてきた社会的困窮者や精神疾患・発達障碍の当事者の抱えている苦しさに酷似しているのではないかと気付けたのは、僥倖。

そこから自己観察を続けて脳にトラブルを抱えた当事者認識の言語化に挑戦したのが、発症からちょうど一年で上梓した闘病記『脳が壊れた』(新潮新書)である。

だがこの闘病記の発行後、脳卒中の後遺症ケアに携わるリハビリ職や精神疾患に携わる心理職の先生たちからは、異口同音にこんな意見をいただいた。

「鈴木さんほど早い時期から障害を受容して自己観察し、かつ前向きに社会復帰に挑めたケースは珍しい。鈴木さんも十分に苦しかったと思うが、他の患者さんはもっと社会復帰に苦しい思いをしているかもしれない」

意外だった。僕自身、リハビリと社会復帰は「なんでひと思いにスッキリ死ねなかったんだろ」としばしば思うぐらいは辛かったし、もう回復はないのではないかと絶望した時期もあった。闘病記はあくまで自分自身への取材であって、他者への取材と執筆というそれまでの仕事とは違うから、きちんと復職できたという感覚もない。

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そもそも受容という言葉はリハビリの現場ではあまり好ましくないもので、例えば入院中には左手のマヒがあっても仕事に復帰できるようにパソコンの音声入力環境を整えたと言ったら、それはよろしくないとリハビリの先生に強めの制止を受けたなんてこともあった。「不自由でも使わなくては回復しない」がその理由だ。

受容したら回復しない。でも、先生たちは、受容しなかったらもっと苦しい思いをしたという。ちょっとした謎掛けだ。

 

この謎についてよくよく考えていたら、脳裏に甦ったひとつの記憶がある。

トイレの個室の中、こっそりとフルーツゼリーを食べている自分の姿だ。桃味だった。まだ脳外科の急性期病棟にいたが点滴は外してもらった後だから、脳梗塞発症から2週間程の頃だったろう。

だがなぜ便所で桃ゼリー? 別に禁じられていた食物だったからではない。

その頃の僕には、高次脳の中でもポピュラーな半側空間無視の症状が出ていて、病院食のトレーの左側にある食べ物を認識できずに食べ残してしまうことがあった。そのゼリーは、まさにその食べ残しだったのだが、これを残してしまったことを看護師や家族や主治医に見られてしまえば、半即空間無視の障害が重いと判断されてしまうかもしれない。

そこで食事のトレーを回収しに来た看護助手さんに気付かれないようにゼリーをすかさず隠し、後に便所でご賞味というわけだ。そういえばヨーグルトでも同じことをやった記憶がある。

ちょっとまて、受容、全然できてないではないか。

思い起こせば発症から少しの間は、自身の障害を認めない、または周囲に隠したというエピソードが多くあることに気付いた。

だが前述したように僕の書いた闘病記は、自らの後遺障害を観察し、その苦しさを言語化したものだ。確かに障害を受容しなければそもそも観察に至らないわけだが、はてさて、では僕はどのタイミングで自分の障害を受容したのだろうか。