『この世界の片隅に』は優れた“妖怪”映画だ!民俗学者はこう観た

日本人が生きてきた「残酷な現実」
畑中 章宏 プロフィール

「かまどの煙」が意味するもの

上長ノ木の北條家から、呉の街を俯瞰する。あるいはシンボリックな存在である「鷺」のような鳥にちなんで、「鳥瞰する」と表現したほうがいいかもしれない。

映画では、資料や証言をもとに再現された呉や広島の町並みが凝っている。その写実的な奥行が臨場感を醸し出すとともに、カタストロフの後の悲惨な光景を準備する。

しかし漫画でも映画でも、最も多くの時間が費やされるのは、高台に建つ北條家の、平屋建ての家屋である。縁側や茶の間での会話や営みも印象的だが、若い主婦であるすずは、“かまど”がある土間で最も長く時間を過ごす。

民俗学者の柳田国男は、子供のころ、厨の方から伝わって来るパチパチという木の燃える音と漂ってくる匂いで、毎朝、目を覚ました(『故郷七十年』)。そこでは母が朝飯のかまどに、小枝の束を少しずつ折っては燃し付けていた。

後年になって柳田は、ふと嗅ぎとめた焚火の匂いから、その小枝がクロモジの木であったことに気がつく。「そして、良い匂いの記憶がふと蘇ったことから、私の考えは遠く日本民族の問題にまで導かれていったのであった」。

また太平洋戦争を挟んで活躍した詩人の伊東静雄も、子供のとき早い時刻に目覚めて、御飯を炊いている母や姉の姿を、かまどの明かりの中でたびたび見たという(「薪の明り 散文詩」)。

そんなとき彼女らは「もうしばらく寝ていなさい」と幼い静雄に言ってくれた。「今私は、田舎に罹災疎開したまゝ、まだ都会に帰れずにいるが、曾ての母や姉の代りをしてくれるのは、妻だ。暗い冬の朝、かまどの前、まきの火の明りの中にうずくまる女の姿ほど、あわれなものはない」。

柳田国男も伊東静雄も、かまどの匂いと煙の記憶に導かれ、民俗学者や浪漫派の詩人になっていった。

映画『この世界の片隅に』では、すずをはじめとする女性たちが炊いたかまどの煙が、呉の家々から立ちのぼる光景が描かれる。その俯瞰シーンは、「高き屋にのぼりて見れば 煙けぶり立つ 民のかまどはにぎはひにけり」という仁徳天皇の歌を彷彿させる。

しかし、ここで煮炊きされているのは、白いご飯ではなく、代用炭団(たどん)で炊いた節米食や、すみれやたんぽぽ、かたばみといった野草だった。