〔PHOTO〕gettyimages

朝鮮植民地支配の「不都合な真実」を暴く注目の一冊
『忘却された支配』が教えてくれること

少女だった母の100年物語

自分の親の生涯を正確に知る子どもは、どのくらいいるだろう。

私がまだ小学生の頃、家の書斎の本棚に、結婚前の父が母に贈った『智恵子抄』を見つけたことがある。赤茶けた古本には短い手紙が挟まれていて、それと分かった。以来、二人の馴れ初めを尋ねるも、はぐらかされっぱなし。親戚のおじさんたちに探りを入れ、ようやく事情が掴めたのは大人になってからだった。

船曳由美著『一〇〇年前の女の子』が文庫になった。編集者としても名高い著者が、母親の人生を丹念に聴き取った、文字通り100年の物語。前半は、明治42年生まれの母が幼少期を過ごした北関東の田舎町が舞台。食べ物に着る物、茶摘みに祭りと“百姓”の素の暮らしぶりを伝える記述は、民俗学的な記録になりそうなほど豊かだ。

そんな母がやがて上京し、苦学しながら新渡戸稲造や吉野作造らの講義を受けつつ知的に成長してゆく。変化の大きさが途轍もない時代に、少女は生きた。本書の最後に、年老いた「母の今」が描かれる。遠い日の故郷を胸に抱き続ける童女のような姿は、切なくも尊い。

 

平凡と一括りにされる人生でも、ひとつとして同じものはない。他者には計り知れぬ痛みや悦び、折々に訪れる人生の山谷は、それ自体が大変なドラマだ。一世紀を生き抜いた母親は、人生の終末に娘という最良の聞き手を得た。両親の出会いを知るだけで20年がかりの私など、敬服するばかりだ。

立花隆著『「戦争」を語る』もまた、立花さんの母による北京からの引き揚げ記録や、立花家の座談会で構成される本だ。敗戦を挟んだ激動期、母・兄・立花さんと、家族一緒に同じ時を過ごしていても、それぞれが受ける印象や記憶が微妙に異なっているのが興味深い。ひとつの「事実」を、ひとつの「歴史」として残すことがいかに難しいかが窺える。

消し去られた殺戮の記録

報道の現場では、戦後〇〇年と節目を数える度に「体験者の証言を聴けるのもこれで最後」と繰り返し言われてきた。今、いよいよそれが現実になろうとしている。

一方で、人の記憶はそもそも曖昧なもので、意図せぬ嘘や間違いが混じり、時とともに変質もする。だからこそ情報の裏取りや分析が重要なのだが、遠い過去に繋がる扉を開けるのは、体験者の「証言」だけに限らない。

伊藤智永著『忘却された支配』は、その好例だ。戦時中、日本の炭鉱、ダム、発電所等の建設現場では80万もの朝鮮人が働かされた。日本国内には今も、朝鮮を植民地支配した歴史を物語る遺構や慰霊碑、朝鮮人の遺骨が遺されている。

遺構にまつわる出来事を辿りながら侵略の記憶を浮かび上がらせる筋書きかと思いきや、それは端緒に過ぎない。面白い本は後段に向けてどんどん加速するものだが、本書は六章でスパークする。

「東学党の乱」に関する記述が、これまでとは異なる角度から書かれている。手持ちの本で歴史を確認しながら慎重に読み進めた。

教科書等によると「東学党の乱」は1894年に朝鮮半島で勃発した「内乱」で、日清戦争を誘発したとされる。

現実は、半島の半分で民衆が「抗日」を掲げて蜂起した戦争だったという。本書によると半島の南西部は、四国から派遣された大隊が殺戮を尽くして鎮圧した。日清戦争の死者は日本側1万3千人、清国3万5千人、東学党の乱5万人とする推計もあり、その規模は日清戦争を越えるとも。

実際、当時の四国各地の地元紙には朝鮮半島での「大殺戮」が詳細に報道されている。武器を持たぬ現地人を「銃殺、焼殺、死刑、拷問」したという、目を覆いたくなるような従軍記も存在する。

だが政府は、この出来事を正式な記録に残していない。あくまで「内乱」扱いだ。近代朝鮮との関わりが、一方的な虐殺で始まるのは不都合だからと著者はみる。

当時の記録や墓石の文字までも丹念に調べあげ、事実を再び明るみに出したのは、地元の元教師や北海道大学の教授だった。東学党の乱で持ち帰られた髑髏がなぜか北大で見つかったのを契機に、教授は調査に乗り出した。

印象的なエピソードが紹介されている。重要なカギを握る四国の大隊長の遺族に会うため、教授は何年も彼岸の日に大隊長の墓前に立ち続けた。

ようやく大学を退官する間際に面会を許され、大隊長の遺品の軍用行李を提供された。そこに保管されていたのは、当時を伝える膨大な文書。教授の執念にも圧倒されるが、焼き捨てることも出来た遺品を公開した遺族の気持ちはいかばかりだったか。日本の負の歴史という重い荷を、遺族は世代を越えて抱え続けた。

 

「日露戦争までの日本は正しかった」とする司馬史観がある。坂の上の雲は、確かに美しかったかもしれない。だが、そこを目指す道程でいったい何が起きていたのか。

日本人は、朝鮮の植民地支配をどう考えるべきか。本書に登場する元官僚はそれを「自分で自分に問いかける内面の戦い」と語った。直接の証言者は消えようとも、私たちにはまだまだ取り組むべき材料が残されている。

週刊現代』2016年12月3日号より