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邦画大ヒットの年に是枝裕和監督が「日本映画への危機感」を抱く理由

このままでは世界から忘れ去られる
立田 敦子

映画監督は食えない職業

ただ、日本映画は国内だけでなく、もっと海外に目を向けるべきだと指摘する。

「若手への支援とか、海外進出へのサポートがもっとあってしかるべきです。“クール・ジャパン”と言って、公的資金を使ってカンヌ映画祭で、くまモンと一緒に写真を撮っている場合ではない。

それで日本の文化を海外に発信しているつもりになっているとしたら情けないことです。そのお金で若手の映画監督たち100人に、あの映画祭を経験させられますよ」

さらに、日本映画界で若手の監督たちが活躍できない原因には、経済的な問題もある。

Photo by Riki Kashiwabara

「僕も資金調達には苦労していますよ。先日、韓国に行ったとき、向こうのプロデューサーと話をして、韓国のシステムについて聞いた。韓国では興行収入の4.5割が劇場分で、残りの5.5割を映画の製作委員会(出資者)と制作会社(監督など作り手)が6対4の割合で分け合うそうです。

つまり、興行収入が10億円あったとすると2億4000万円が、一番汗を流した制作者たちの手に渡る。そして、その資金は次の作品の準備に充てられます。でも、日本だと5割が劇場で、残り5割のうち1割を配給会社、4割が製作委員会に渡る。多くの場合、監督には配分がないんですよ。

僕は、交渉するようにしていますが、日本でお金の話をするのは、あまり好まれない。1%の成功報酬を交渉するのに、なんでこんなに苦労しなければいけないんだろうってつくづく思っていた。

なので、韓国のシステムを聞いて、暗い気持ちになりました。映画監督は食えなくて当たり前、みたいな感覚では、映画監督という職業に若い人たちが夢を持てなくなっても仕方がない」

 

作れてもあと10本

映画界のこと、後進のことを考えるようになったのは、50歳を過ぎた頃からだという。その頃から、映画作りへの意識も変わった。

「30代の時は、映画が撮れること、それだけで嬉しかった。40歳頃に撮ったのが、『誰も知らない』(2004年)という作品だったのですが、これはデビュー作として撮りたかったストーリーだったんです。それが撮れたことで、やっと映画監督になれた気がした。

『歩いても 歩いても』(2008年)という作品が完成したときに、ああ、これで映画監督を続けて行けるなと思った。『そして父になる』は、自分が父親になったことで、感じたものを作品に投影しています。

『そして父になる』と『海街diary』という僕にとっては少しサイズ感が大きい作品を立て続けに撮って、もう一度、自分の適正サイズに戻ってみようと思って撮ったのが、『海よりもまだ深く』なんです」

『海よりもまだ深く』は、50代の売れない小説家と老いた母親と別れた妻、小学生の息子との関係を描いたホームドラマだ。主人公は是枝監督自身の父親が投影されている。撮影も成人するまで実際に住んでいた都内の団地で行われた。これまでの作品の中でも最もプライベートな作品といっていいだろう。

「現在54歳で、これから2年ごとに作品を撮ることができたとしても、20年で10本しか撮れない。そう思うと、目の前のことで忙しくしているだけでキャリアが終わってしまうのではないかという不安も感じます。

撮りたいものがすべて撮れているわけではない。これからの10年をどういう風に映画監督として過ごすのか、その大切さを感じ始めているところです」

“海よりもまだ深い"人生の愛し方、教えます。