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ボブ・ディランはなぜノーベル「文学賞」を獲ったのか
人類にとって詩がもつ意味

ボブ・ディランがノーベル文学賞を受賞したときに、多くの人が驚いたのは、歌手がノーベル賞を取った、というポイントだった。

たしかに彼はシンガーである。ただシンガーとして受賞したわけではない。御存知のとおり、その歌詞を評価され、受賞した。

なぜ歌詞などを評価するのだろう、村上春樹のような小説家にあげるべきではないのか、という疑問も出ていた。

ボブ・ディラン受賞報道のあと、しばらくそういうやりとりがなされているのを見て、多くの現代人にとって、ノーベル文学賞の対象となる〝むかしながらの文学〟には、ほとんど興味を持っていないのだなと、あらためておもった。

高度資本主義・高度情報社会における文学のポジションのむずかしさである。

詩歌こそが文学の本道

ボブ・ディランがノーベル賞を受賞したのはもちろん「詩人」だからである。「英語文化の伝統のなかで偉大な詩人」だと評価されていた。

有名な歌手ボブ・ディランのノーベル賞受賞は、あまりに意外であり、なぜ歌手が受賞するのだ、というある意味正しい疑問と、なぜ詩人が受賞するのだという無茶な疑問が混じって出てきていた。

詩人がノーベル文学賞を取るのを、あまり不思議がらないでほしい。あきらかにノイズである。文学にまったく興味ない人までつい発言してしまったほど、ボブ・ディラン受賞の衝撃は大きかった、ということなのだろう。

いまのふつうの人にとっては、文学とは小説のことであり、小説のみが文学だとおもっているかのようだ。詩歌は、あまりその視野に入ってない。

もちろん詩は文学である。

極端にいえば、詩のほうこそ文学だ、ともいえる。

歴史を見れば、詩歌のほうが文学の本道であり、小説に比して、はるか多くものを文学としての詩が担ってきている。そのあたりのことは、たしか中学や高校の文学史の時間に習っているはずである。

わが国でも、詩歌は7世紀万葉集のむかしから存在する。ギリシャとなればそれより1500年遡り、紀元前8世紀ホメーロスから文学としての詩が残されている。中国でもおなじく紀元前から詩は存在していた。

小説は、先行的な作品はいくつかあるとしても、いまある小説のもとは近代のものである。早くて17世紀、だいたい18世紀以降のものだ。

小説の歴史は300年、詩歌は3000年。

3000年の文学と300年の文学では、重みが違う。

文学とは、詩歌である。音であり、リズムである。私はそうおもう。

 

ノーベル文学賞の傾向

小説ももともと、音とリズムから生まれている。その音の心地よさが読み進める力になる。私はそうおもっているが、ここは意見の分かれるところであろう。

言葉なのか、音なのか、思念なのか、それは人によって判断が違う。私は、音とリズムを重視したいほうである。意味よりもリズム。言葉よりも音。(あくまで比率の問題ではあるが。)

ノーベル文学賞も、通してみれば詩人よりも小説家の受賞のほうが多い。

1901年の第一回をフランスの詩人プリュドムが受賞して以来、1920年代までは詩人と小説家とがだいたい同じ頻度で受賞していた。

ところが1930年代から1940年代、ファシズムと戦争の時代にはなぜか小説家中心の受賞が続き、そののち頻度でいえば、だいたい詩人1に対して小説家2の割合で受賞している。

21世紀に入ってからはほとんど小説家ばかりとなった。2011年にスウェーデンの詩人トランストロンメルが取った以外はほぼ小説家で(ジャーナリストもいるが)、ボブ・ディランの受賞は、ひさしぶりの〝文学の正統・詩人〟からの受賞となる。

音韻を大事にするボブ・ディランの詩の受賞は、文学の原点にふれているようにおもえ、私はとても言祝ぎたい。