1931年満州事変勃発。しかしそのころ日本のクリスマス狂乱はピークを迎えていた。Photo by GettyImages
日本史 キリスト教
バブルもびっくり!? 戦前昭和クリスマスの狂乱っぷりがスゴかった
軍靴の音もどこ吹く風…

そもそもは日本人とは縁もゆかりもない外来の祝祭、クリスマス。それがなぜ日本では恋人たちの夜になったのか?

その歴史的変遷をホリイ博士がずんずん追いかける連載第16回、いよいよ昭和に突入! 私たちの歴史イメージとはまったく違う当時の日本人の狂乱ぶりとは?(前回はこちら http://gendai.ismedia.jp/articles/-/50194 第1回はこちら http://gendai.ismedia.jp/articles/-/47056

戦前のクリスマス狂騒時代

昭和のクリスマスは狂乱の度合いを高めていく。

1928年から1933年までが、まさにクリスマス狂騒時代だと言っていいだろう。
 
1928年(昭和3年)になると、クリスマス騒ぎはもとに戻ってくる。12月25日が大正天皇祭であるにしても、それはそれとして、という空気が強くなってくる。

東京朝日新聞でも12月6日から5日連続で「話題と解説」というコラム欄でクリスマスの特集をしている。5日連続の読み物である。初日は〝クリスマスの謂われ〟、2日目は〝欧州のクリスマス事情〟、3日目が〝サンタクロース〟、4日目が〝クリスマスプレゼント〟、5日目に〝クリスマスのお祝い料理〟となっている。

街にクリスマス気分が横溢としているのがわかる。10日にクリスマスプレゼント紹介の記事があり、またクリスマスイヴのラジオでは、クリスマス特集が組まれている。

子供向けのクリスマス会も盛んである。かつては教会でおこなわれていたクリスマス祝会を(おそらくこの時代でも行われていたとおもうが記事になっていない)企業が主催するようになってくる。

代表的なのは、森永製菓主催のクリスマスの集いである。最初は日本青年館で開かれ、のちには日本劇場や日比谷公会堂という、当時のトップクラスのホールで開かれるようになる。

入場料は年によって違うのだが、30銭から50銭、クリスマスの歌、お芝居、お伽噺、お笑いそして映画が上映され、みなにお土産が渡される。かなりの人気だったことがうかがえる。毎年目立った広告が出されている。前売り入場券は都内各所の森永キャンデーストアで販売している。

のちに似たような会を朝日新聞も開く。

お子様向けのクリスマスは、教会から離れ、企業主催で、お菓子たっぷりのお土産付お楽しみ会として開かれるようになる。その内容を見ていると、私でさえいまでもちょっと行きたくなる。当時、これに連れていってもらえる子供は、とても楽しみにしていたのだろうと想像できる。

 

国会開催中は野外での集会禁止

キリスト教会でのクリスマス風景は、もう、ほぼ報道されなくなる。

1920年代に入り、クリスマスは教会のものではなく、日本人の一般大衆のものへと移っていったということだろう。もちろんキリスト教会でのクリスマス祝会が開かれてないわけがない。キリスト教の祭日なのだから。でも、それは報道されなくなった。異国文化としての報道価値もあまり認めなくなったということだろう。

欧州大戦ののち、世界五大国のひとつとなったと信じている国民にとって、欧州各国なみにクリスマスを騒ぐことは当然、という気分があったのではないか。

やがて、日本は欧州各国との対立状態に入っていくのだが、そうなっていくと、いきなりクリスマスはきれいに切り捨てられていく。そのあたりにも、日本のクリスマスという存在の特殊性がよく出ているとおもう。

ちなみに1928年(昭和3年)にはこども会中止広告がのっている。

「「クリスマスこども大会」は二十五日日比谷公園での開会の筈でありましたが、議会開会となり、野外集会禁止となりましたので、残念ながら中止する事になりました。いずれ後日あらためて、ご案内致しますからそれまでお待ち下さい 十二月二十五日 ライオン児童歯科院」

このライオン児童歯科は、ライオン歯磨とは関係のない歯科医院である。

ただ、当時は議会が開かれると、野外での集会が禁止になるという集会条例が有効だったことが時代の空気としてよくわかる。

政治集会ではなく、クリスマス子供会であっても、国会開催中は野外での集会は禁じられていたのである。そういうお上の力がとても強い時代の、市民たちによる大騒ぎというのは、また別の側面を持っていた。