サッカー
待望のJ監督オファー、そして流浪のストライカーが選んだ道
松原良香Vol.17

(*前回はこちら http://gendai.ismedia.jp/articles/-/49953

松原良香が望月重良から電話を貰ったのは、2015年11月のことだった。

元日本代表の望月は松原より1つ年上にあたる。静岡市生まれで清水商業の望月に対して、松原は浜松市生まれで東海第一高校。同じチームに所属したことはないが、静岡県下では早くから選抜チームによる合同練習が行われていたため、2人は中学生から知り合いだった。

望月は現役引退後、2008年にSC相模原を立ち上げた。神奈川県社会人サッカーリーグ3部から始め、2013年にJFLに昇格。この年にJリーグへの入会が認められ、2014年からJ3に所属している。

待望のJ監督のオファー

2015年シーズン、出足こそ悪くなかったが、中盤から引き分け、負けが込んでいた。

松原はこう振り返る。

「(相模原は直近の試合で)4連敗していて、しかもノーゴール。チームは最悪の状態。だから監督をやってくれないかと」

監督の誘いである――。

松原は2005年シーズン、1年だけ静岡FCの監督を務めていた。その後、2012年にJFA公認S級コーチのライセンスを取得している。

いずれはJリーグの監督をやりたいという思いはあった。しかし、自らが立ち上げたサッカースクールの運営、中高一貫校のサッカー部のゼネラルマネージャー職で忙殺される毎日が続いていた。

状況が変わったのは、2014年12月のことだ。

神宮外苑で始めたサッカースクールは、会員数が増えたため、六本木に移転となっていた。ところが、このサッカースクールは松原の手から離れることになった。同じ時期、ちょっとしたことで足を引っ張られ、一貫校のサッカー部のGM職も辞任することになった。どちらも松原は人を信じすぎていたのだと唇を噛んだ。

「サッカースクールはもちろん、その中学・高校のサッカー部を何もなかったゼロの状態から強くしたのは“自分だ”という思いがあった。自分の力をどこかで証明したかった」

六本木で教えることはなくなったものの、浦安のサッカースクール、メディア出演の仕事などがあった。それをやりくりしていても白黒がはっきりとつく監督をやりたいと強く思ったのだ。

松原は監督就任を決めてすぐ、練習を見に行き、選手たちの前で挨拶することになった。

「(練習場の)ノジマテラスのグラウンドで自己紹介しました。自分と望月代表の付き合いだったり、自分はこのクラブをどうしたいかという内容でした。ぼくが任されたのは、このチームを来シーズンに繋げること。すなわち残り試合を全て勝つことだと」

その日は雨が降っていた。ずぶ濡れになった選手たちの表情には、負けが続いているチーム特有の暗さがあった。

特に元日本代表の高原直泰の険しい顔が目についた。

高原が高校を卒業し、ジュビロ磐田に入ったのは98年のことだった。同じポジションの松原は高原に押し出される形でクロアチアへ移籍することになった。

「タカ(高原)のことは昔から知っているじゃないですか? 彼はキャプテンとしてチームをなんとかしなければならないという思いがあった。ただ、ぼくや望月代表に気を使っているのも感じた。チームは停滞しているので、他の選手にも遠慮する部分もあった」

シーズン終了が近づき、今季限りで退団が決まっている選手のモチベーションが落ちていた。加えて勝てない、ゴールが奪えないことで雰囲気は最悪だった。