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国家・民族
日本人が終戦まで「特攻」を止められなかった、驚きの理由
尊い犠牲の上に、今日があるからこそ

特攻。「十死零生」の作戦はなぜ生まれたのかを探る本連載。最終回は、次第に「成功率の低い作戦」と判明していく中で、それでもなぜこの作戦を止めることができなかったのか。その「謎」を紐解く。毎日新聞・栗原俊雄記者のスペシャルレポート。

(前・中篇はこちらから http://gendai.ismedia.jp/list/author/toshiokurihara

「お前ら、覚悟しろ」

「特攻隊を志願しましたか?」

筆者がそう問うと、江名武彦さん(1923年生まれ)は答えてくれた。

「いえ。意思を聞かれることはありませんでした」

早稻田大学在学中の1943年12月、江名さんは学徒出陣で海軍に入った。航空機の偵察員となり、茨城県の百里原航空隊に配属された。前任地の静岡県・大井海軍航空隊から百里原に到着したとき、上官が言った。

「お前たちは特攻要員で来たんだ。覚悟しろ」

特攻隊員になるかどうか、聞かれたことはなかった。そして江名さんは南九州・串良基地から特攻隊員として2度出撃し、生還した。

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前回書いた通り(http://gendai.ismedia.jp/articles/-/50088)、1944年10月に最初の神風特別攻撃隊を送り出した大西瀧治郎中将は、大日本帝国海軍航空部隊を育てた一人である。しかも、航空特攻を「統率の外道」と認識していた。それでもなぜ、大西は特攻を推進し、続けたのだろうか。

まず言えるのは、大西のみならず海軍全体、そして陸軍にも共通することだが、1944年10月の時点では、米軍を主軸とする連合国軍に対して通常の作戦では太刀打ちできなくなっていた、ということだ。

たとえば特攻が始まる1944年10月に先立つ7月、サイパン近海で両海軍が激突した「マリアナ沖海戦」では、帝国海軍は9隻、約450機の搭乗機をそろえ米海軍に決戦をいどんだ。

しかし空母16隻、900機を擁する米海軍に惨敗した。ほぼすべての航空機と、虎の子の正規空母2隻を含む空母3隻を撃沈された。一方、敵艦は一隻も沈まなかった。世界の海戦史に残る惨敗であった。

大西はこの惨敗の後、日本ほどからフィリピンに赴任する前、台湾で面談した連合艦隊司令長官・豊田副武に語ったという(豊田、『最後の帝国海軍』)。

「中には単独飛行がやっとこせという搭乗員が沢山ある、こういう者が雷撃爆撃をやっても、ただ被害が多いだけでとても成果は挙げられない。どうしても体当たりで行くより外に方法はないと思う」

 

「ヨチヨチ歩き」でも出撃

ところで、飛行機搭乗員が独り立ちするまでどれくらいの時間がかかったか、ご存じだろうか。

特攻の実情を精密に分析した小沢郁郎によれば、何とか飛ぶことができる程度になるまで300飛行時間程度が必要で、それは「人間で言えばヨチヨチ歩きの段階」(『つらい真実・虚構の特攻神話』)であった。赤ちゃんのようなヨチヨチ歩きまで、毎日3時間飛んでも、100日もかかったのだ。

当時「血の一滴」と言われた航空燃料も相当費やす。そうして膨大な時間と大切な燃料を費やして育てた搭乗員を、ただでさえ劣勢な戦場に送っても、戦果は一向に上がらず反比例するように戦死者が増えるばかりだ。

おなじ戦死するならば、命中率が高いと思われた特攻に踏み切ろう、という判断だったと思われる。前述のようにはじめに大戦果をあげたため、さらに拡大していった。

しかし米軍側が対策を整えるにつれ敵艦に突っ込むどころか敵艦隊に近づくことすら難しくなった。当然、戦果も期待したようにはならなかった。

それでも大西を初めとする海軍首脳は特攻を続けた。敵にダメージを与えられる戦術がそれしかなかった、ということもあるが、それ以外にも理由はありそうだ。