エンタメ 週刊現代
人間の「悪」の起源は『蹴りたい背中』のなかに全て描かれている
鋭い洞察力に佐藤優も驚愕

保釈中に夢中で読んだ

綿矢りさ氏は、人間の心について深い洞察力を持つ作家だ。評者は綿矢氏の小説を読むとドストエフスキーを思い出す。それは綿矢氏の作品が多声的で、複数の読み方を可能にするとともに「悪はなぜ起きるのか」という深刻な問題と正面から取り組んでいるからだ。

綿矢氏は'01年、17歳のときに『インストール』で第38回文藝賞を受賞し、'04年に『蹴りたい背中』で第130回芥川賞を受賞した。当時、綿矢氏は19歳、『蛇にピアス』で同時受賞の金原ひとみ氏が20歳だったので、大きなニュースになった。両作品が掲載された『文藝春秋』2004年3月号は、増刷を行い売り上げ118万5000部に達した。

因みに『蹴りたい背中』を読んだときのことを評者はよく覚えている。鈴木宗男事件に連座して、「小菅ヒルズ」(東京拘置所)の独房に512日間ぶち込まれた後、'03年10月に保釈になり、京浜東北線与野駅そばの母の許に身を寄せて静かに暮らしていた。

1週間に使う本代は1000円と決めていた。2~3日に1回、近所の本屋に行って本や雑誌をよく吟味して買う。その後、さいたま新都心駅のスターバックスまで歩いていき、数時間、読書をする。それが数少ない楽しみだった。

 

『文藝春秋』に掲載された『蹴りたい背中』を読みながら、「外務省にいたならば、こうして芥川賞受賞作をゆっくり読むこともできなかった。裁判は面倒だが、こういう生活も悪くない」と思った。それでは本題に入ろう。

主人公のハツ(長谷川)は、クラスで疎外されているわけではないが、どのグループにもうまく加われない。彼女には、中学時代からの友人絹代がいる。高校生になって、絹代は男女混合グループに加わる。ハツもこのグループに誘われたが、断る。高校1年生であるが、ハツには確固たる自我がある。他人に同調して自分を見失いたくないのだ。ハツは、

〈高校に入学してからまだ二ヵ月しか経っていないこの六月の時点で、クラスの交友関係を相関図にして書けるのは、きっと私くらいだろう〉という己を突き放した観察者でもある。

同級生のにな川智は、オリチャンというモデルに熱中するオタク少年だ。ハツがにな川に、中学1年生のときに駅前の無印良品でオリチャンと偶然出会い、会話を交わしたことがあると伝えたことから、にな川とハツは急速に親しくなる。

もっともハツは、にな川にとって〈“オリチャンと会ったこと”だけに価値のある女の子〉であることを冷静に認識している。自分のにな川に対する感情についてハツは友だち以上、恋人未満と整理しているようだ。

綿矢氏はこの作品の中で、眼差しを重視する。ハツとにな川の以下のやりとりが印象的だ。

〈「長谷川さんの考えてることって全然分からないけど、時々おれを見る目つきがおかしくなるな。今もそうだったけど。」

「へっ?」

「おれのことケイベツしてる目になる。おれがオリチャンのラジオ聴いてた時とか、体育館で隣で靴履いてた時とか、ちょっと触れられるのもイヤっていう感じの、冷たいケイベツの目つきでこっち見てる。」

違う、ケイベツじゃない、もっと熱いかたまりが胸につかえて息苦しくなって、私はそういう目になるんだ。というか、にな川って、目がどうとか、私のこと見ていたなんて。私の向こうのオリチャンしか見ていないと思ってたのに〉

もっとも「オリチャンを見つめているにな川が好きだ」という枠組みにハツの気持ちが収まらないときがある。臨界に達した局面でハツはにな川の背中を蹴る。そういう事態は2度起きるが、紙幅の都合で1度目だけを紹介する。

にな川の部屋の中で、にな川がハツを目の前にしてオリチャンのラジオ放送を片耳イヤホンで熱中して聴いているときだ。

〈この、もの哀しく丸まった、無防備な背中を蹴りたい。痛がるにな川を見たい。いきなり咲いたまっさらな欲望は、閃光のようで、一瞬目が眩んだ。

瞬間、足の裏に、背骨の確かな感触があった。

にな川は前にのめり、イヤホンは引っぱられCDデッキから外れて、ラジオの曲が部屋中に大音量で鳴り響いた。おしゃれな雑貨屋なんかで流れていそうなボサノバ調の曲に全然合っていない驚いた瞳で、彼は息をつめて私を見つめている。

「ごめん、強く……叩きすぎた。軽く肩を叩こうとしたんだけど。もう帰るって、言いたくて。」ドアをノックするような手の動きを加えながら、嘘がすらすら口から出てきた。

「ほぼパンチくらいの威力だったよ、今の。」〉

瞬時に人を蹴るのも、すらすら嘘をつくのも、ハツに内在する悪が形になったからだ。ハツには、内省する力がある。

〈認めてほしい。許してほしい。櫛にからまった髪の毛を一本一本取り除くように、私の心にからみつく黒い筋を指でつまみ取ってごみ箱に捨ててほしい。

人にしてほしいことばっかりなんだ。人にやってあげたいことなんか、何一つ思い浮かばないくせに〉

イエス・キリストは、「受けるよりは与える方が幸いである」(「使徒言行録」20章35節)と言った。これは、罪を持つ人間は本来何も持たないが、イエス・キリストを信じることによって、他人に与えることができるものを得るという認識に基づいている。

ハツは、「受けるよりは与える方が幸いである」という真実が、わかっている。それだから、他人に与えることができるものが何もない空虚な自分を救って欲しいと、未知の誰かに対して訴えているのだと思う。

週刊現代』2016年11月12日号よ

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