読書人の雑誌「本」 文学
小説とエッセイの違いは何か〜答えは「小説らしさ」という形ではない
整理されない思いをそのまま文章に

整理されない混乱をそのまま文章にしたい

もうすぐ60歳、還暦を目前にして思いはますます整理しがたく、私はその整理されない混乱を混乱としてそのまま文章にしたい、そんなことは可能なのか。

文字にして伝える思い、肉声で伝える思い、人に伝えずひとり持ちつづける思い——思いには大きく分けるとこの三つがあり、文字にして伝えることが思い(考え)を一番整理することになるとされているが、「整理する」というのが曲者で、文字に書く・文章にすると思っただけで、ひとりで心の中に持ちつづけた思いは厚みを失う。

思いには、それを経験したエピソードそれ自体の厚みがあるだけでなく、それが起きた季節の記憶の厚みがあり、エピソードを繰り返し思い返したそのつどの反復の厚み、あるいは逆に「この記憶は違ってるんじゃないか」という思い、それらが何重にも塗り重ねられている。

そしてさらに厄介なことに、言葉の意味するところが人それぞれで違う。

「せつない」「ものがなしい」「すっきりしない」「ムラムラした」という形容詞に類する言葉だけでなく、「玄関」「生け垣」「路地」という、あたり前に見える名詞でさえ人ごとに自分がこれまで経てきた人生の中からその像を思い描く。

玄関は木の引戸なのか金属のドアなのか、そこは開放的なのか閉鎖的なのか、うちのようにたいてい脇に猫がいたり……。

生け垣と言われても金網のフェンスしか思い浮かばないとか、初夏はそこにバラが咲いているとか、生け垣→垣根→「垣根の曲がり角」で童謡の『たき火』を連想するところが『たき火』を通り越して「ちいさい秋、ちいさい秋、見つけた……」をいつも思い出してしまうとか(私のことだ)。

小説かそうでないかを決めるのは?

言葉というのはまったく特定しがたいもので、つきあいが深くなればなるほど、楽譜みたいに人それぞれの中で違った音を奏ではじめる。そういう、言葉が持っている複雑で多層的な性質が思いっきり発揮されるのが小説だ。

小説は思いを整理して伝えるという行儀いいものではない。小説には何か本質的に読解を拒む、通約不能でアナーキーなものが息づいていなければならない。そしてそれこそが、人生そのもの、長く生きてきた人間とその内奥そのものだ。

日本では、小説・文学というと青年や若者のイメージが優勢で、ついでにいえばそこに悩みがくっつく。大文豪の夏目漱石でさえ49歳で没したから50代から先の人生を知らない。

「文学も思想も、大事なのは切れ味なんだから長く生きればいいというものじゃない。」

というのはいかにもまっとうな意見だが、人生を生きてきた時間が厚くなればなるほど切れ味でなく、切りようがわからないことに魅力を感じるようになる。

例えば、本書(『地鳴き、小鳥みたいな』)収録の一篇「夏、訃報、純愛」の先生の性欲は悩みというようなわかりやすいことではない。

言い方をかえれば、人生や世界を語るのにわかっていることを積み上げていくやり方が薄っぺらく見えて魅力を感じず、わからないことにこだわり、言葉にしがたいことに停滞することから、人生や世界の通約不能な手触りが時間をかけて醸成する。

今回『地鳴き、小鳥みたいな』というタイトルでまとめられた本には、四つの短篇が収められている。三つは長めで一つはかなり短い。

どの短篇もたいていの人は「これは小説でなく、エッセイじゃないか」と思うかもしれない。しかしこれらは紛れもなく小説なのは、どの短篇も私は私の書き方を押し通したからだ。大げさに言えば、私は私の人生の時間を賭けて何かを文字として外にあらわそうとした。

小説かそうでないかを決めるのは「小説らしさ」という形ではない。その何かというのは、文字が意味を伝える行儀よさを壊して、文字から肉声が聞こえるようにしてはじめて伝わる何かで、それが何であるかは読んで感じてもらうしかない。

話が起承転結でまとまっていれば読者は居心地がいいのはわかっている。しかし思いというのは、起承転結でなく、凝縮と拡散、あるいは跳躍と立ち止まり、という運動の不連続な繰り返しだ。

この本の中の短篇のどれかが、読者がいままで言葉にしたことがなかった思いに届き、それと響き合うことができたら、著者としてこんなに嬉しいことはない。

読書人の雑誌「本」2016年11月号より