週刊現代
「芸能界55年体制」はこうして確立された
「ザ芸能界 TVが映さない真実」第3回

巨額のカネが動く芸能界。だが「芸能プロダクション」とはどのような存在なのか、知る人は少ない。いかにして彼らは力をつけていったのか——華やかな舞台の裏で、熾烈な駆け引きが行われている。(第2回はこちら http://gendai.ismedia.jp/articles/-/49981

 

ナベプロが全ての始まり

以下は'90年代のSMAPデビュー直後、一緒に仕事をしたテレビ局関係者の証言である—。

ある日、収録が終わった後で局を出ようとしたとき、陰に隠れていたSMAPのメンバーに取り囲まれたという。何事かとぎょっとすると、彼らは真剣な表情でこう訊ねてきた。

「ぼくらのギャラって本当は幾らなのですか?」

当時、メンバーのほとんどは高校生。幼いなりに自分たちが貰っている給料が少ないのではないかと、不信感を持つようになっていたようだ。

その関係者はこう答えた。

正確なギャラの金額は分からないが、高くはない。これは君たちのレコードを売るための番組でもあるということで出演料は低く抑えられていると聞いている、と。

ジャニーズ事務所に限らず、芸能プロダクションはテレビ局やレコード会社への強い影響力を保つことでビジネスモデルを構築してきた。タレントに対する報酬や待遇は、すべてその力関係の枠内で決められる。

とりわけ大手芸能プロダクションは、その時代ごとの主要メディアを掌握し、一方でお互いを牽制し合いながら、いわば「芸能界55年体制」ともいうべき強固なシステムを作り上げた。今回は、その歴史と構造の見取り図を描いていく。

メディアとの相互関係にもとづく芸能プロダクションのビジネスモデルを確立したのは、渡辺晋と妻の美佐が設立した「渡辺プロダクション」、いわゆるナベプロである。奇しくも同社の創業は'55年1月だ。

渡辺晋は'27年に東京で生まれている。早稲田大学在学中、楽器が弾ければ金になると聞き、生活費、学費を稼ぐためにベースを始めたという。ギターでなくベースを選んだのは、演奏者が少なかったからだ。

ジャズミュージシャンの仕事の他、彼はタレントのプロデュースにも手を伸ばすことになる。それを手伝ったのが妻の美佐だった。

美佐の母方の祖父は日英混血、祖母は日米混血という血筋だった。母の花子は英語に堪能で、進駐軍の通訳として働き、やがて米軍基地内のクラブでミュージシャンのブッキングを手がけるようになる。そして美佐の父・曲直瀬正雄と芸能プロダクションを立ち上げた。後のマナセプロである。マナセプロには大ヒット曲『上を向いて歩こう』で知られる歌手、坂本九が所属した。

こうした両親の経験が渡辺プロの草創期を大きく助けることになった。

ノンフィクション作家の野地秩嘉は、著書『渡辺晋物語』の中で、渡辺プロ以前、芸能プロダクションの雛形は4つあったと指摘している。

まずはレコード会社、映画会社の一部門としての芸能部である。当時、歌手や役者はレコード会社の専属になっていた。

2つ目は浪曲や演歌の世界特有の、「師匠と内弟子」という徒弟制度からなる組織である。

3つ目は大物タレントと個人マネージャーという結びつきだ。大物の歌手や俳優は個人マネージャーを抱えており、彼らが仕事の差配をした。

〈最後が独立系の芸能プロである。山口組が経営していた「神戸芸能」は美空ひばりの興行を担当し、独立系のなかでも最大の規模と言われていた〉(前掲書より)

ジャズミュージシャンであった渡辺晋はそのどれにも属していなかった。同書によると、彼は「販促興行」という企業がスポンサーとなる興行形態をとり、全国の興行の大半を仕切っていたやくざと巧みに距離をとったという。渡辺プロは日本で最初の近代的芸能プロダクションとなったのだ。