政治政策 政局

田中角栄、最後の言葉「政治家は誰のためにいるのか」

彼が成し遂げたかったこと

「金権政治家」「闇将軍」と叩かれたあの時、角栄の目は郷里新潟の小さな過疎の村に注がれていた。住民は皆「ここが角さんの原点だ」と語る。政治家人生の最後に、彼は何を成し遂げたかったのか。

「必ずまた来る」

暑い日だった。車から降りた田中角栄元首相は背広も脱がず、差し出された冷えたキュウリに味噌をつけて頬張ると、急ごしらえの演台に乗りマイクを握った。

「トンネルが完成したら必ずまた来ると約束した。それが果たせてうれしいっ」

'83年7月27日、角栄は新潟県小千谷市塩谷に作られたばかりの「塩谷トンネル」の坑口に立っていた。そこは、後に'04年の中越地震で大きな被害を受ける山古志村から、険しい山道をくねくねと登った山中である。

この日、自身が逮捕されたロッキード事件の一審判決が3ヵ月後に控えていたこともあって、トンネルの落成式に臨む角栄を追ったマスコミの車が、山道に1㎞も数珠つなぎで続いた。

塩谷は過疎の集落だ。冬には積雪3~5mもの豪雪に見舞われる。唯一の産業である錦鯉の養殖池に囲まれ、約60戸の家々が斜面にへばりつくように建っていた。村と小千谷の町との間には、険しい雨乞山が立ちはだかる。暮らしてゆくために、男たちは出稼ぎに出るしかなかった。トンネルは生活のための悲願だった。

完成したトンネルは全長513m、幅員7m、総事業費は12億円。ロッキード事件の翌年の'77年に起工したこともあって、「たった60戸に12億円の投資か」、「カネを各戸に2000万円ずつ分けて引っ越してもらったほうがいいのではないか」という批判が噴出した。しかし、角栄は持ち前の剛腕でトンネルの建設を主導した。

実は、角栄は逮捕直後の総選挙、いわゆる「ロッキード選挙」のとき、この塩谷を訪れていた。

「もう少しだ。トンネルができて無雪道路になれば、自分の家が一番いい。村に工場を作って、そこでみんな働けるんだ」

 

もう少しだ――。

トンネルから50mほど離れた山腹に、小さな隧道(ずいどう)が穿たれている。その入り口に角栄はたたずみ、奥の暗闇を一人じっと睨んでいたという。

塩谷の人々は、それまでこの自力で掘りぬいた手掘り隧道を頼りに暮らしていた。犠牲者も出るほどの難事業だったことを角栄は知っていた。

'38年から、塩谷の集落の男たちはツルハシで雨乞山の岩を砕き始めた。人の手で掘り進められるのは1日にせいぜい50㎝。5年かけ、長さ500m、幅わずか1・5mの隧道が貫通したのは終戦を前にした'43年のことだった。

'42年冬に落盤事故があった。大雪のさなか、ツルハシをふるっていた友野源次郎の頭上に岩が落ち、首の骨を砕いた。享年38。源次郎の墓碑は今も塩谷トンネルの坑口にあり、その隣には「明窓之碑 越山田中角栄書」と刻まれた石碑が並んでいる。

「おおい、友野の倅(せがれ)はいるか」

角栄は、手掘り隧道の犠牲になった源次郎の息子・広徳(現在83歳)のことをいつも気にかけていた。落成式の挨拶の最中、演台の上からこう叫んだ角栄は、進み出た広徳の手をしかと握りしめた。

広徳は40歳ごろから塩谷越山会の幹事長を任されていた。夜汽車に揺られて何度も上京し、目白の田中邸を詣で、トンネルの実現を角栄に陳情していた。

〔PHOTO〕gettyimages
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