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エンタメ

佐藤優が潜伏先で繰り返し読んだ忘れられない小説『死国』

虚構と現実、どちらが怖い?

外界を遮断し夢中で読んだ

坂東眞砂子氏(1958年3月30日~2014年1月27日)を評者は心の底から尊敬している。『死国』を読んだのは、鈴木宗男疑惑で評者がマスコミ関係者につけ回され、六本木のウイークリーマンションに潜伏しているときのことだった。

外務省国際情報局から外交史料館に異動になったが、メディアスクラムはやまない。この職場では残業がないので仕事は午後5時45分に終わる。外交史料館の玄関から尾行してくる記者を地下鉄やタクシーを何度か乗り換えて振り切った後に潜伏先に戻る。そこで小説を読むのが楽しみだった。

外界の騒音から遮断された環境で、作品の世界に没入することができた。そのときに繰り返し読んだ小説の1つが『死国』だ。

 

東京でイラストレーターとして成功している明神比奈子は、小学校時代暮らしていた高知県の矢狗村を訪れる。他人に貸していた明神家所有の古家の状態をチェックするというのが表の理由だが、実際は東京での男との関係に疲れていたからだ。33歳前後になった同級生たちはこの村で逞しく生活している。

そこで幼なじみの日浦莎代里が中学生時代に溺死したことを知る。村役場には同級生だった秋沢文也が勤めている。文也は離婚して都会から故郷に戻ってきた。元同級生の話から、比奈子は、莎代里が文也に好意を寄せていたようだったということを知る。

比奈子、莎代里、文也は一緒に「神の谷」によく遊びに行った。そのことを思い出し、比奈子と文也は「神の谷」を訪れたが、そのときに泥の中から文也は高さ70センチメートルくらいの石の柱を偶然持ち上げてしまう。泥の中に奇妙な左巻きの渦が生じ、空が暗くなる。2人は不気味になって村に帰る。

その晩、比奈子は隣家で老婆のシゲから奇妙な話を聞く。

〈「そう、どめかんでもええ、靖造(注・シゲの息子)。しまいにゃ、みんなぁ帰ってくるわ」

茶の間の三人は、背を丸めた老婆を見た。シゲは、しなびた林檎のような顔を一同に向けて続けた。

「四国で生まれた者は、死んだら四国に帰ってくる。神の谷の神様に呼ばれて、もんてくるわ」

神の谷と聞いて、比奈子は息を止めた。今朝のことがまた蘇ってきた。

「嘘やないぞ」

シゲは威圧するような声でいった。

「四国の者は、死んだら神の谷にもんてくる。あそこの神様に呼ばれてもんてくる」

靖造が不機嫌にいい返した。

「そんな話ゃ、耳にタコができるばあ聞かされたわ。あそこにゃ、ゆうちゃならん神様、見ちゃならん神様がおるゆうがやろ」

「そうじゃ」

「ゆえもせん、見えもせん。そんなもん、どんな神様かわかりゃせんわ」

シゲは息子をじろりと見た。

「そがなことゆうなら、教えちゃる。神の谷におられる神様はな」

シゲは、丸い座卓を囲む三人のほうに身をかがめた。小さな体が、麻袋のように丸まった。

「死んだ者じゃ」

比奈子の頭に莎代里の顔が浮かんだ。彼女は奥歯を噛みしめた。力を抜くと、体が震えだしそうな気がした。

「神の谷は、死んだ者の場所ながや」

藪蘭の黒い実のような老婆の目が光った。一瞬、茶の間を沈黙が支配した〉

莎代里のような女は現実にもいる

日浦家は霊媒の家系で、莎代里の母・照子は、四国・八十八ヶ所の最後の札所から、一番目の札所に、通常の巡礼者と逆回りでお参りする「逆打ち」をしている。逆打ちを死者の歳の数だけすれば、死者が死の国から戻ってくると信じているからだ。

そして、莎代里を含む死者が戻ってきた。

しかし、生者と死者が混在すると、この世界全体が死者に支配されてしまう危険がある。蘇った莎代里は文也を我が物にしようとする。

〈比奈子は莎代里に体ごとぶつかって、突き飛ばした。華奢な莎代里は転がるように池に倒れこみ、一旦頭まで水に沈んだ。しかしすぐに顔を上げると、唸り声をあげて比奈子を睨みすえた。らんらんと光る目には憎しみが渦巻いている。憎悪で人が殺せるものなら、比奈子は莎代里に百回だって殺されただろう。比奈子は、文也を守るように抱きかかえた。

「あんたは死んだのよ、莎代里」

〈死んだら、何も欲しがったらいかんが?〉

莎代里の濡れた黒髪の先から、たらたらと水が流れ落ちる。白い歯の間から、苦しげに言葉を吐き出した。

〈死んだら大人になれんが? 死んだら、人を好きゆう気持ちも死なんといかんが?〉

莎代里の顔は悔しさに歪んでいた。

莎代里は大人になりたかったのだ。大人になって、自分を表現するすべを身につけて、文也に恋を打ち明けたかったのだ。

「莎代里ちゃん……」

ためらうように声をかけた比奈子を、莎代里は怒りと侮蔑のこもった顔で見返した。

〈あんたの同情はいらん。哀れんだげるんは、あたしのほうや。あんたは愚図でのろまの亀。あんたなんかに文也君をやりゃあせん。そんなん、絶対、いややっ〉

全身を氷の刃で貫かれた。素裸にされて、野山に放り出された罪人のような惨めさを覚えた〉

作品を読む楽しみを読者から奪ってしまわないために結末は書かない。是非、本書を手にとって欲しい。

坂東さんと会ったときに評者が「莎代里ちゃんのように、見た目はきれいなんだけど、自分のことしか考えていない妖怪のような女性は外務省でときどき目にします」と伝えた。坂東さんは、「まあ怖い。莎代里ちゃんのような人がほんとうにいるなんて」と答えた。

現実の世界の方が小説より怖いのかもしれない。

『週刊現代』2016年11月5日号より