オリンピックで日本代表としてプレーする重圧
──アマの誇り、プロの矜持

MASANORI SUGIURA
SHINYA MIYAMOTO

杉浦 正則・宮本 慎也

2016.10.31 Mon

杉浦正則さん(左)、宮本慎也さん(右)

現在、日本生命の営業マンとして活躍する杉浦正則さんは、92年バルセロナ、96年アトランタ、2000年シドニーと、3大会に渡りオリンピックの野球競技で全日本チームを引っ張ってきた大エース。

「キューバを倒すこと」を野球人生の目標とし、プロから声が掛かってもアマチュアを貫いたことから、野球ファンはその精神に敬意を込めて"ミスターアマチュア野球"と呼んでいます。

宮本慎也さんは、東京ヤクルトスワローズ一筋19年の野球人生を2013年に終え、現在はプロ野球の評論や解説などで活躍。プロでは通算2133本の安打を放って名球会入りを果たし、2004年アテネ大会、2008年北京大会とオリンピックにも二度出場。キャプテンとしてオールプロのチームを引っ張りました。

今回は、同志社大学野球部時代の先輩・後輩であり、今でも交流のあるお二人に、日の丸を背負って挑んだオリンピックでのエピソードや、今後の野球界の在り方についてお話を伺いました。前編では、出場されたオリンピックの各大会を振り返っていただきます。(取材&文・岡田真理/写真・村田克己)

オリンピックで感じた日の丸の重圧

——お二人は同志社大学で二学年違いの先輩・後輩ですが、当時はお互いどのような印象を抱いていましたか。

杉浦 宮本はPL学園のスター選手でしたから、大学に入ってきた時から注目を浴びていました。特に守備はピカイチで、当時からプレーヤーとして素晴らしいものを持った選手でしたね。

宮本 杉浦さんのことは、大学に入る前から同志社のエースとして知っていました。当時から優しい先輩という印象です。もともと性格的に怒れないタイプですよね。だから、後輩としては“ノーマークでも大丈夫な先輩"でした(笑)。

杉浦 オリンピックを目指すようになったのは、ちょうどその頃だったんです。僕が大学4年の時、野球が公開種目だったソウル大会(88年)の二年後に初めて、全日本(代表チームの当時の呼称。現在は「野球日本代表」と呼ばれる)の合宿に呼んでいただいたのですが、当時全日本の監督だった山中(正竹)さんがミーティングで「このチームはバルセロナで金メダルを獲るチームだ」と明言されたんです。その瞬間から、オリンピックに行きたいと強く思うようになりました。

宮本 僕は高校3年の時にバルセロナで野球が正式種目になると知ったんですね。それで、その頃は「オリンピックに出てインパクトを残してプロに行く」というストーリーを描いていました。当時の僕は、オリンピックはプロに行くためのステップという見方をしていたんです。杉浦さんは、実際バルセロナ大会に日本代表として出場されて、どう感じました?

杉浦 ソウル大会の一年後からすでにチーム作りが始まっていて、僕は途中から入ったのですが、以前からやってきた人たちの思いをそこで初めて知って、オリンピックの日本代表としてプレーをする重みを痛感しました。自分がチームの目標を崩したらダメだという思いが芽生えてきて非常に重かった。だから、本番ではもう無我夢中でした。

宮本 あの時、杉浦さんは準決勝で投げていましたよね。準決勝というのはメダルの有無がかかっているいちばん大事な試合。だから、準決勝でいちばんいいピッチャーが投げる。杉浦さんはそこを任されていたので、やっぱりすごいなと思って観ていました。

杉浦 銅メダルは獲得できたけど、やはり金メダルを目指したチームだったので落ち込みようがひどくて。特に僕が打たれて負けたので……。次のアトランタ大会のことなんか、まったく考えられなかったです。

それから、実際にオリンピックに出てみると、やはり注目度が全然違うなと感じましたね。ほかの国際大会ではあんなにメディアは来ないですから。いろんな競技の選手たちがいて、みんながプレッシャーの中で戦っている雰囲気があって、それまで経験してきた国際大会とはずいぶん違いました。

宮本 その4年後、96年のアトランタ大会では、キューバとの対戦に敗れて銀メダルという結果でしたよね。

杉浦 僕がプロに行かずアマチュアを貫いたのは、オリンピックでキューバを倒したいという思いがあったから。オリンピックの決勝でキューバに勝って金メダルを獲ることがいちばんの目標でした。ですから、あの対戦には特別な思いがありました。

結果、僕は2回6失点で降板。試合も負けて銀メダルが決まった時は涙を堪えきれませんでしたが、不思議と満足感もあったんです。自分が追い求めてきたチームが強いことを体感して、悔しさと嬉しさが入り混じった涙でしたね。

宮本 僕も社会人時代キューバと試合をさせてもらったことがあるんですけど、金属バットで強打のキューバと対戦するのはピッチャーが本当に大変ですよね。キューバ対策として彼らが不慣れなアンダースローのピッチャーを入れてもことごとく打たれますし。

アトランタ大会では一方的にやられたわけではなかったし、決勝でキューバとやって負けたなら仕方ない。日本野球にとってはオリンピックで最高位と思っていい成績だったと思います。

プロ・アマ混合での挑戦から得た学び

——2000年のシドニー大会には、プロ・アマ混合チームで出場することが決まりました。この知らせを聞いてお二人はどう思われましたか。

杉浦 アトランタ大会後、すでにアマだけでスタートを切っていたので、「えっ」という思いですよ。僕自身もアトランタで打たれたことに自分の中で整理をつけてシドニーを目指そうと意気込んでいましたし。

宮本 オリンピックが商業化してきていたので、いずれプロが出ないといけない状況になるのかなと僕は見ていました。ただ、僕は社会人野球を経験しているので、できればアマだけでやったほうがいいとは思っていましたね。

でも、それだと他国がオールプロで挑んできたらなかなか勝てない。ましてやこの大会から木のバットを使うようにルールが変わりましたから、金属バットを使っている日本のアマは打てません。

僕はこの時点ですでにプロでプレーしていたんですけど、当時の状況では選ばれるプロの選手もオリンピックに出ることには多少後ろ髪を引かれるんじゃないかなと思いました。まだプロ側も進んで協力する体制ではなかったので。

杉浦 社会人は競技人生が終わってもその会社に勤められるけれど、プロは野球が本業。チームの主力の一角が抜けるとなったら商売ができなくなるわけですし、故障時の保障問題などの整備もできていなかった。協力体制になれないのは仕方なかったですし、だったらアマだけで行くと言いたかったですね。

そんな中、シドニーの代表選手の選考を報じる新聞で、「杉浦、残念」という見出しがあって。それを見て、何も考えられなくなって涙が止まらなかったんです。もう終わった、と思ったところに、今度は「復活」という報道が飛び込んできた。

でも、一度心の糸が切れていたのでもう辞退しようかと思っていて……。その時、電話を掛けてきてくれたんだよな。

宮本 はい、杉浦さんがオリンピック出場を辞退するかもしれないという報道を見て、すぐに電話を掛けたんです。どうせグジグジしてるんじゃないかなと思って(笑)。僕は、「せっかく選ばれるなら行ったほうがいい。一個足りないメダルを頑張って獲りにいってください」と伝えましたよね。

杉浦 あの時、「何のためにプロに行かずアマでやってきたんですか」って言ってくれて。それがきっかけで、もう一度頑張ろうと切れた糸を結び直すことができました。僕は頑固ですから、あの電話がなかったらシドニーには行っていなかったでしょうね。

宮本 プロ・アマ混合チームでの出場は、杉浦さんにとって大きな挑戦だったと思いますが、初のメダルなしという残念な結果になってしまいましたね。

杉浦 もともと違う畑で野球をやっているわけですし、そもそも一緒に練習する時間が少なかった。大会二日前に合流したような状況でしたから。

野球はバッターが3割打てばよくて、7割は失敗するスポーツ。その失敗をほかの誰かがカバーしないと勝ちにはつながらない。そのためのチームワークを短期間で作るのは難しかった。特に連携プレーはうまくいかなかったですね。

宮本 プロでも、春のキャンプで毎年一から同じことをやっても合わない時がある。連携プレーというのはそれだけ難しい。二日前に合流してさあやりましょうと言っても厳しかっただろうとは想像できますね。

杉浦 ただ、プロが参加したことによる収穫もありました。アスリートとしての立ち振る舞い、体のケアやプレーの質。プロに行かないとわからないことを我々に見せてくれました。特に、野村謙二郎さんが人一倍アップの時間を長くとっていたのが印象的でしたね。そういった競技以外の部分を学べたのはとてもよかったです。

プロ側も戸惑いはおおいにあったと思います。でも、プロの中に社会人野球やオリンピックを経験したメンバーも数名いて、彼らがほかのプロ選手たちにアマの思いを繰り返し伝えてくれていました。それには、本当に有難く感じましたね。

アマの思いを胸に挑んだオールプロの二大会

——そして、2004年のアテネ大会からはオールプロのチームでオリンピックに挑みました。宮本さんは、アテネ大会、北京大会でキャプテンを務められました。

宮本 正直なところ、僕は自分がメンバーに入るとも、行きたいとも思っていませんでした。プロとしてペナントレースが大事であることはもちろん、オールプロの日本代表にかかるプレッシャーはある程度想像できたので、むしろ嫌だなと思っていました。

オールプロになったこと自体も、嫌な方向に行ってしまったなと。社会人や大学生でオリンピックを目指している人をたくさん見てきましたけど、そういう人たちもプロを目標にするしか道がなくなったわけですから。

杉浦 僕自身は、プロ・アマ混合で勝てなかったので、きっと次からオールプロになるだろうと思っていました。寂しいけど仕方ないな、と。シドニー大会に出たプロの8選手が、自分の経験をほかのプロたちに伝えていってくれたらいいなと思っていました。

宮本 僕はこの時、杉浦さんに電話で相談しているんですよね。キャプテンをやることになって、やってやろうと気持ちを切り替えて挑んだ予選前の壮行試合で、12球団選抜との試合に全日本が負けたんですよ。このメンバーなら勝てるだろうと思っていたのに負けたので、杉浦さんに電話して「どうしましょう」と。

杉浦 その試合は僕もテレビで見ていたんですけど、アマの感覚で見ると、どの選手も自分のことばかりでプレーに入り込んでいなかった。まとまりもないし、勝つことにも執着していない。その印象をそのまま伝えました。

宮本 杉浦さんからは、「伝えなくてはいけないことはちゃんと伝えるべき」とアドバイスをもらったんですよね。僕も、「悔いがないように」と自分に言い聞かせました。実は、その負けた日からチームの雰囲気がガラリと変わったんです。そういった切り替え能力は、やはりみんな一流選手だなと感じましたね。

アテネも北京も、全勝で金メダルを獲ることが義務づけられているような状況でしたから、「なんとか無事に勝って日本に帰りたい」という思いのみでした。金メダルは叶いませんでしたけど、キャプテンとして選手たちには「社会人でオリンピックに出たい人がたくさんいることだけは忘れないでくれ」と常に伝えて挑んだ2大会でした。

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杉浦 正則・宮本 慎也(すぎうらまさのり・みやもとしんや)

杉浦正則:野球日本代表メダリスト。日本生命保険相互会社勤務。1968年和歌山県生まれ。1987年同志社大学入学、関西学生リーグでは1990年秋季リーグで優勝、明治神宮野球大会でも優勝を果たす。1991年日本生命入社。1992年バルセロナ、1996年アトランタ、2000年シドニーと3度五輪出場。バルセロナで銅メダル、アトランタで銀メダルを獲得。五輪通算5勝は世界記録。2000年シーズン後に現役引退。2006年から2009年まで日本生命監督を務める。
宮本慎也:野球解説者。1970年大阪府生まれ。PL学園高校時代、1987年の第69回全国高等学校野球選手権大会では唯一2年生として決勝戦に出場。三塁手として先発出場し全国優勝。1989年同志社大学入学、関西学生リーグでは1990年春季リーグで首位打者を獲得。社会人野球(プリンスホテル)を経て1994年ドラフト2位でヤクルトスワローズに入団。2004年アテネ、2008年北京で五輪出場。アテネで銅メダル獲得。2013年シーズン後に現役引退。