SMAP解散。そのとき芸能界の大物たちはどう動いたか

「ザ芸能界 TVが映さない真実」第2回

巷間語られる「SMAP崩壊」の物語や「水面下での移籍騒動」は、事実の一面だけをとらえているに過ぎない。ジャニー、メリー、そして田邊昭知——芸能界の「掟」を知り尽くす、彼らの決断とは。(第1回はこちら http://gendai.ismedia.jp/articles/-/49869

「下手なものはしょうがない」

ジャニーズ事務所のタレントは、すべて社長であるジャニー喜多川の創造物である。

アメリカ生まれのジャニーの頭には常にブロードウェイのミュージカルがあった。彼が育てようとしたのは、歌、踊り、芝居の出来る人間だった。

しかし—

SMAPは芝居はともかく最初の二つについては、少々水準が落ちるグループであったといえる。

以下はジャニーと仕事をしたことのある音楽関係者の証言だ。

デビューの際、ジャニーはレコード会社の大会議室に担当者を集めて、グループのコンセプトを説明する。その後、要所要所でジャニーはチェックはするものの、楽曲制作はレコード会社の担当者に任されることになる。

SMAPには制作担当者も苦労したようだ。

「メンバー6人のうち、歌が一番上手かったのは森君(且行、'96年に脱退)。木村(拓哉)君、稲垣(吾郎)君はまずまず。しかし、残りの3人(=中居正広、草なぎ剛、香取慎吾)はどうしようもなかった。当時のCDをよく聞くと、担当ディレクターの声が残っている。

ガイドとしてディレクターが歌ったのを当時の技術では消せなかったのかもしれないし、残さないと曲として持たなかったのかもしれない。ともかく、飯島さん(三智、マネジャー)は『下手なものはしょうがない』と言っていた」

SMAPがデビューしたのは、'91年9月だった。デビュー曲『Can't Stop!! Loving』は週間チャートで2位に入ったが、その後が続かなかった。

彼らの解散騒動が起きて以降、多くのメディアはこう解説している。

デビュー直後のSMAPは低迷していた。これでは駄目だと思ったマネジャーの飯島三智がバラエティに舵を切ってから売れ出した。だからSMAPのメンバーは「育ての親」として飯島に恩義を感じている。飯島がジャニーズ事務所から追放された際、SMAPが行動を共にしようとしたのはそのためである—。

しかし、こうした分かりやすい図式は疑ったほうがいい。SMAPの「バラエティタレント化」はテレビ局側の事情と大きく関係しているのだ。

【PHOTO】gettyimages

社会学者の太田省一は著書『芸人最強社会ニッポン』の中で、'80年代に入った頃から、フジテレビを中心に〈すべてを笑いに変える「おもしろ」志向が勢力を拡大し始めた〉と指摘している。その象徴が当時のフジテレビのキャッチコピー「楽しくなければテレビじゃない」だった、と。そして、こうも書いている。

〈バブル景気に国民全員が沸いた'80年代後半から'90年代初頭になると、「おもしろ」が「まじめ」よりも優位に立つようになる〉——。

SMAPのデビューは、テレビにバラエティ番組が増殖していったこの時期とちょうど重なっている。歌も踊りもぱっとしない6人組を救ったのは、まさにこの「おもしろ」を求める世の中の空気だったともいえる。

救ったのはテレビ東京

SMAPを分析する上で重要な番組がある。'91年10月から始まった『愛ラブSMAP!』(テレビ東京系)だ。

当時、すでにテレビからは歌番組が減りつつあった。当初、ジャニーは『愛ラブSMAP!』を新曲を披露する重要な場所と考えたはずだ。

 

当時を知るテレビ局関係者はこう振り返る。

「SMAPは3ヵ月に一回程度の割合で新曲を出す。しかし、それほど売れていたわけではなかったので、『愛ラブSMAP!』がテレビでの最初の露出になった。

最初の収録にはジャニーさんが来て、振り付け、カット割りにまで口を出した。『(草彅)剛のアップをここで入れる』『森のカットが足りない』といった具合です。とはいえ、高圧的ではなく、ジャニーさんの頭の中にある像をみんなに伝えるという感じ。だからもちろん反発する人間もいませんでしたし、彼のイメージに沿う映像にしようとやっていました」

ジャニーからは一つだけ強い要望があった。それは、「中途半端な女性タレントと絡ませないでくれ」というものだった。ジャニーは全ての企画でSMAPを際立たせることを考えていたのだ。