ご飯はこうして「悪魔」になった〜大ブーム「糖質制限」を考える

現代社会の特殊な価値観と構造
磯野 真穂 プロフィール

たとえばこんな具合だ。

穀物という神は、確かに1万年前の人類を飢えから救い、腹を満たしてくれた。その意味ではまさに神そのものだった。

しかしそれは現代社会に、肥満と糖尿病、睡眠障害と抑うつ、アルツハイマー病、歯周病、アトピー性皮膚炎を含むさまざまな皮膚疾患などをもたらした。

現代人が悩む多くのものは、大量の穀物と砂糖の摂取が原因だったのだ。人類が神だと思って招き入れたのは、じつは悪魔だったのである。(『炭水化物が人類を滅ぼす』(夏目睦著)[4])

厚生労働省が1947年(昭和22年)に出した『国民栄養の現状』[5]によると、日本人の1日の栄養摂取は、全体の72%が穀類から、11%が芋類からであり、1日のカロリー摂取のかなりの部分を糖質制限ダイエットで積極的に制限される炭水化物に依存していることがわかる。

また、それより10年前の1936年(昭和12年)に発刊された『栄養読本』[6]には、日本人の栄養摂取量の85%は炭水化物であり、さらにそのほとんどが米であることが、日本人は1日3回白米を食べるという記載、労働者に至っては一日5合の米を食べるという記載からうかがえる[6]。

もっと時代をさかのぼり江戸時代にいたっても、80%の人々がその量の差はあれ1日3回白米を食べており[7]、それほど裕福ではなかっただろう農村地帯3でも、1食当たり2~3合の米とキビの混ぜご飯を食べていたという記録が残っているという[8]。

ここから明らかなように、白米に代表される糖質は、日本人が追い求め、そして実際に日本人を生かしてきた食べ物である。しかし21世紀に入り、その糖質を悪魔と呼ぶ人が現れた。当時の人がこれを聞いたら目をぱちくりさせるに違いない。

3飛騨高山の農村地帯の例
〔PHOTO〕gettyimages

原始時代と糖質制限

糖質はなぜここまで悪者になってしまったのか?

 

糖質制限派の主張できわめて興味深いのが、その絶対的な根拠を原始時代に求めていくところである。

著者により多少のずれはあるものの、大枠で共通する糖質制限派の主張は次のようなものだ。

人類は700万年近くを狩猟・採集で過ごしており、その間、人類は高タンパク・高脂質の食事をとっていた。糖質が食事の中心になったのはわずか1万年前のことであり、人間の身体は糖質を大量に摂取するようにはデザインされていない。2型糖尿病、肥満、心疾患といった生活習慣病の大元は糖質過多の食事にある。

私は、糖質制限により体重が減ったとか、2型糖尿病が改善されたという人々の体験やデータ自体に疑問を持っているわけではない。糖質制限は実際にそのような効果を多くの人にもたらしてきたのだろう。

しかし注意したいのは、その事実が、原始時代の人々が糖質をほとんど食べていなかったとか、原始時代の食生活が人間にとってもっとも理想的であるといったことの証明にはならないということである。

実際、進化生物学が専門のマーリーン・ズック(Marlene Zuk)[9]は、原始時代に正当性の根拠を求める糖質制限派の主張を、「パレオ・ファンタシー」(Paleo Fantasy:原始へのあこがれ)と名付け批判的に論じている。

まずズックは、初期人類であるネアンデルタールやアウストラロピテクス・セディバの歯に穀物を採集・調理していた痕跡があることを挙げ、私たちの祖先が肉食中心だったというパレオ派の主張に疑義を唱える。

加えて、人類は時代や場所に応じて様々な食べ方をしているため、ある時代の人類が同じ食べ方をしていたという見方にはそもそも無理があるし、仮に一部の狩猟採集民が肉ばかりを食べて生きていたとしても、そのことと、かれらにとって肉食が最適かどうかは別の話しであると述べる。

さらに、「農耕が始まってから1万年余しか経過していないため、人間の身体は糖質過多の食事に適応できていない」というパレオ派がよくなす主張に対しては、「1万年は十分な時間である」と喝破する。

チベット人が標高数千メートルの高地で生活できるようになったり、乳製品を効率よく消化することのできる、進化したラクターゼ活性持続遺伝子を持つ人々が現れたりしたのはこの数千年であることからわかるように、人間の身体はもっと短いタイムスパンでも変化しうるからだ。

人類はある時期環境に完璧に適応した健康な生活を送っていたが、時代が下るほどにそこから離れていったというパレオ派の考えは、進化についての誤解であるというのがズックの主張である。

また進化生物学者の言葉を待たずとも、原始時代に回帰する糖質制限派の主張に無理があることは、素人の私たちにも予想がつきそうだ。

もし糖質を中心に食べることが、人類という種にまったくそぐわないものであれば、栄養摂取の8割強が炭水化物からであった昭和初期の人々は次々と生活習慣病を発症していただろう。

しかし生活習慣病にかかるのはかれらではなく、糖質からの栄養摂取がそこから2割近く落ち込んだわれわれなのである[10]4。この矛盾を私たちはどう説明したらいいのだろう。

4平成26年国民栄養調査によると同年の炭水化物エネルギー比率は59.0%である。