「かい人21面相」の影を掴んだ、執念の男の告白
グリコ森永事件・歴史に埋もれた"スクープ"

「あの事件は何だったのか。あいつらは誰だったのか。そればっかり考えてる。青春を返してくれですよ(笑)。85年に日航のジャンボ機墜落事故が起こったときも、自分だけは『かい人21面相』を追っていた」

発売2カ月で5万部を超えたベストセラー小説『罪の声』(塩田武士著)。グリコ・森永事件を題材とした本作では、新聞記者の阿久津が、執念の取材の果てにひとつの真実にたどり着く過程が描かれている。

言うまでもなく、阿久津は架空の人物だ。しかし、現実の世界にも未だグリコ森永事件を追い続けている「執念の男」がいる。「ミスター・グリ森」と呼ばれた、元読売新聞記者・加藤譲氏の姿を、塩田武士が描く――。

「ミスター・グリ森」と呼ばれた男

昭和末期、大手製菓会社の社長が自宅から連れ去られたのを皮切りに、放火や青酸菓子のばら撒きなど1年5ヵ月にわたって前代未聞の展開を見せた警察庁広域重要指定114号、通称「グリコ・森永事件」。

関西弁の挑戦状を新聞社に送りつけ、脅迫金奪取計画では子どもの声が入ったテープを利用して世間を騒がせた「かい人21面相」は、最後まで警察や大企業といった〝権力〟を嘲笑うアンチヒーローを気取った。

捜査当局や報道各社に送られた「脅迫状」。ひらがなの使い方が、不気味さを増幅している

犯人逮捕に向け、靴底をすり減らしたのは捜査員だけではない。前線に身を置いた記者たちもまた、熾烈な戦いを強いられた。事件の迷宮入りが現実味を帯びてきた1994年、元読売新聞記者の加藤譲氏は常識外れの賭けに出た。

発生10年の節目に放たれた朝刊一面、トップ記事の見出しは「『グリコ・森永』に有力容疑者」――。極秘裏に進められた計画の背景に迫り、「ミスター・グリ森」と呼ばれた記者の軌跡を辿る。

昭和史に刻まれた最大のミステリー

筆者が加藤氏と出会ったのは昨年の9月。小説『罪の声』を書くにあたり加藤氏を紹介してもらい、既存の資料では理解できなかった事件の解説をお願いした。自宅には記者時代の夜回りメモや捜査資料の山があり、取材に費やしてきた年月を物語る。

当時の出来事を細部まで完璧に記憶し、淀みなく質問に答えていた加藤氏だが、唯一言葉を濁したのが「犯人像」に関する質問だった。これについては後述する「大勝負」の項につながるが、まずは事件の概要を整理したい。
 
1984年3月18日午後9時すぎ、兵庫県西宮市にあった江崎グリコ社長、江崎勝久氏の邸宅に銃を持った2人組の男が押し入り、江崎社長を裸のまま拉致。現金10億円と金塊100キロを要求したが、江崎社長は3日後、監禁場所の水防倉庫(大阪府茨木市)から自力で脱出した。だが、人質なき後も脅迫は続き、大阪市内のグリコ本社などが放火され、事件は警察庁の広域重要指定となる。
 
以後、犯人たちは自らを「かい人21面相」と名乗り、1年5ヵ月の長きにわたり計6社の製菓、食品メーカーを次々と脅迫。森永製菓脅迫では、青酸ソーダ入りの同社製品が小売店にばら撒かれた。

警察も必死だった。重要な手掛かりとなる「似顔絵」に似た人物を用意し、広く捜査への協力を呼び掛けた

徹底した保秘の方針が仲間内に疑心暗鬼を生んで捜査は空回りし、特ダネ競争に陥ったメディアの報道が、結果的に犯人に利するケースも少なくなかった。

85年8月12日、「かい人21面相」は大手新聞四社に「くいもんの 会社 いびるの もお やめや」などと書かれた挑戦状を送り付けて闇に消える。警察、企業、マスコミ、そして大衆をも巻き込んで昭和末期の社会を騒然とさせた事件は、2000年2月に完全時効を迎え、未解決のまま今日に至っている。

グリコ・森永事件を題材にした小説『罪の声』(amazonはこちらから

辞表と「大誤報」

戦後史に残る事件が現在進行形で動いている状況下で、加藤氏が所属していた読売新聞の取材態勢は万全とは程遠かった。グリコ事件が発生した同じ月に、大阪市内で起こった男児誘拐殺人事件の報道協定解除問題で、読売は半年に及ぶ府警記者クラブのボックス封鎖を命じられる。

無論、捜査幹部によるレクも受けられない。情報の中枢から締め出されたに等しく、ただでさえ大きなハンデだった。

 

それに加え社内の風通しが悪く、社会部と各総支局を束ねる地方部の対立、大阪本社と東京本社の対抗意識など、お手本のような「サイロ・エフェクト」が完成していた。加藤氏は「ライバル紙が部署の垣根を超えて頻繁に取材会議を開いてる中、うちは事件発生から半年の間にたった1回。環境は最悪やった」と振り返る。
 
当時加藤氏は36歳。府警捜査一課担当キャップという華やかな肩書きが、このときばかりは重りに感じた。各社が記者を総動員して態勢を整える中、捜査員の動きを偵察する記者の確保すらままならない。それでも40人ほどいたというネタ元を頼りに夜討ち朝駆けを繰り返した。

加藤氏が保管している「取材メモ」。GMと書いてある封筒が気になるが、「これは見せられへん」。一番手前、「第61回センバツ」とあるファイルは、カムフラージュだ

ネタ取りは「量」ではなく「質」だ。加藤氏が刑事宅にいるときに他社の記者が訪ねてくると、刑事の妻が加藤氏の革靴を隠して体よく追い払っていたというエピソードに、事件記者としての力量が窺える。
 
無論、休日などなかった。府警ボックス近くのベンチで取る仮眠が唯一の安らぎという息苦しい日々が続く。

「グリコの社長誘拐から大晦日まで一日も休みがなかった。元日だけ休みを取ったけど、それでも20軒ぐらいは電話した。で、1月2日からはまた同じ生活。プロ野球中継も大河ドラマも全然見られへんかった」
 
犯人が〝終結宣言〟を出した後、加藤氏は辞表を取材バッグの奥底に沈めた。「犯人逮捕で抜かれたら社を去る」と決意していた。だからこそ、1989年6月1日の毎日新聞夕刊には衝撃を受けた。
 
<グリコ事件 犯人取り調べ――