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世界で急増する「新・中華街」の実態〜40年でこんなに変わった!

地理学者による異色のフィールドワーク
〔PHOTO〕gettyimages

フランスのなかの中国

「ばら色の人生」、「愛の讃歌」などで知られるシャンソン歌手、エディット・ピアフ(1915~1963年)は、ベルヴィルとよばれるパリ東部の下町で生まれた。

地下鉄(メトロ)のベルヴィル駅から地上に出ると、フランスにいることを忘れてしまう景観が広がっている。駅の出入口の傍にあるキオスクでは、欧洲時報、星島日報などの中国語新聞が売られ、通りを歩いている人びとで最も目立つのは中国人である。

ベルヴィル駅から緩やかな坂を上がっていくベルヴィル街の両側は、中国語の看板を掲げる中国料理店、美容院、宝飾店、中国民芸品店、中国人向け婚礼写真館などが軒を連ねている。

中国語看板の中でもひときわ目につくのが、「温州」という文字である。フランスの中国人社会では、浙江省の温州地方出身が主流派をなしている。中国では、温州人は古くから商売や金儲けが上手で、温州商人は「中国のユダヤ人」ともよばれてきた。

「温州美食林飯荘」という看板は温州料理専門店で、「温州髪型屋」は温州人経営のヘアーサロンである。坂をさらに上り、ベルヴィル街の72番地には、エディット・ピアフの生誕地を示すプレートが掲げられている。

中国人が経営する寿司店もある。下手な手書きのひらがなの店名の看板が掲げられている。にぎり9個とサーモン海苔巻のセットが16ユーロ(2015年)。

海外では、経営者や料理人が日本人ではない「日本料理店」が多い。中国人、韓国人、ベトナム人などが、世界的な日本食ブームの中で、より価値のある「日本」という看板を掲げて寿司店や日本食レストランを経営する現地社会への適応戦略を、私は「借り傘戦略」とよんでいる。

今日の日本でも、中国の東北地方出身者でありながら、「台湾料理」という看板を掲げた料理店を経営している例が多くみられる。「中国」よりも「台湾」の方が、日本ではブランド力があるとみての借り傘戦略である。

ベルヴィル街には「寮暹酒家(Lao Siam)」の看板を掲げたラオス・タイ料理店がある。経営者はラオス(中国語で寮国)出身の華人である。マイナーなラオスよりも、よりメジャーなタイ(旧称シャム〔中国語で暹羅〕)の看板を借用したもので、これも借り傘戦略の一つである。

 

世界で増え続ける「新華僑」たち

再びベルヴィル駅に戻り、付近を歩くと、中国料理店のほかにベトナム料理店やベトナム式サンドイッチの専門店も多くみられる。ベトナムの代表的な麵料理であるフォー(Pho)の看板を掲げたベトナム料理兼中国料理店が多い。これらのオーナーは、ベトナム出身の華人である。

フランス植民地時代の名残ともいえるベトナム式サンドイッチであるバイン・ミーが、フランスに逆上陸して人気を博している。ランチタイムに行列ができているバイン・ミーの店をのぞくと、一番人気は焼き鳥を挟んだサンドイッチであった。

ベトナム式サンドイッチ「バイン・ミー」〔PHOTO〕gettyimages

庶民的な雰囲気が感じられるベルヴィルは、かつては労働者の街であった。パリにやって来たユダヤ人、アルメニア人、アラブ人、トルコ人のほかヨーロッパ各地からの移民を、この街は多く受け入れてきた。

フランス語で「ベル」は美しい、「ヴィル」は街を意味し、中国人はこの街を「美麗城」(「城」は都市や街の意味)とよんでいる。すでに述べてきたように、このベルヴィルは、今やパリの代表的なチャイナタウンと化している。

パリには、地元の人たちが「チャイナタウン」とよぶ地区がある。パリ南部、13区のイタリー広場から南下するイタリー通りとショワジー通り沿いの地区である。この地区には、ベトナム戦争(1975年終戦)の激戦や終戦後の社会主義化の混乱から逃れてきたベトナム・ラオス・カンボジアのインドシナ難民が多く居住した。

これらの難民の多くは、先祖が中国から移住してきた華人であった。旧フランス領インドシナ以来、商業や工業など経済面で重要な役割を果たしていた華人であったからこそ、インドシナ3国の社会主義化により差別、冷遇などを受け、海外へ脱出せざるをえなかったのである。

この13区のチャイナタウンに対して、1978年末以降の改革開放に伴い中国から来た中国人(「新華僑」という)によって形成されたのが、ベルヴィルのチャイナタウンである。よそ者を多く受け入れてきた伝統をもつこのベルヴィルに新華僑が集住し、新しいチャイナタウン、すなわち「新・中華街」を形成したのである。