日本史 キリスト教
クリスマスの「お祭り騒ぎ」は100年以上前から批判されていた
ほとんどお正月気分!?

明治時代の日本人にとって、クリスマスはどんなものだったのか? 実は驚くほど初期の頃から、すでに敬虔な信徒が眉をひそめるような方向へと日本のクリスマスは進んでいたのだ。日本人とクリスマスのふしぎな関係を解き明かす好評連載第10回(→第1回はこちら http://gendai.ismedia.jp/articles/-/47056

〔PHOTO〕iStock

最初の新聞記事

クリスマスの新聞記事のうち「新聞集成」で見つけられる最初のものは1875年(明治8)である。

以下の新聞記事については、読みにくい漢字は随時ひらがなに直し、また読みやすいように句読点を加えた。当時の新聞には難解な文字が多いが、ほぼ全文ふりがながつけてある。

「廿四日の夜はクリスーマスイブ、即ち耶蘇降誕の宵祭にて、中村敬宇先生の学校教師(カツクラム)先生の宅に、右の祭式がござりました。それにつきては東京有名の碩学先生やら、諸寮の奥様やらの御集会がござりました。その中にはゼネラル西郷公の奥方から御嬢様なども入らせられ、御同人様よりは大そう立派な造花をそなえられました。

また昨廿五日は商法学校の教師(ホイトニュー)先生の宅もクリストマスの祝宴ありて、碩学たちの集会がござりました」(東京曙新聞。12月26日付)。(ご存知の方が多いだろうが〝廿〟は〝二十〟を一文字で表す漢字である)

中村敬宇は、原胤昭のクリスマスにも来ていた中村正直。かれは数年前に『自助論』(西国立志伝)を出版して大いに売れ、著名人であった。ゼネラル西郷は、陸軍中将西郷従道のことである。

1875年当時、異人居留地ではクリスーマスが祝われており、上流階級の人たちや日本のインテリがそこに集っていることを紹介している。〝碩学〟の人しか来ていない。海外人たちとの交流の場ととらえられているのであろう。

鹿鳴館のパーティのようなものだと、想像されていたのではないか。庶民とは縁がない。

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