歴史
GHQ尋問「極刑」を逃れた岸信介〜擁護に回ったある重要人物の存在
巣鴨プリズンの様子を再現

岸への弁護が際立つ木戸尋問

戦中、天皇を補佐する内大臣だった木戸幸一は昭和史のキーパーソンである。彼は敗戦後の1945(昭和20)年12月16日、A級戦犯容疑者として巣鴨プリズンに収監された。

木戸はそれから3ヵ月の間にGHQ国際検察局による尋問を30回受けた。一方、岸信介は同じA級戦犯容疑者ながら、翌年3月初旬まで一度も尋問を受けていない。GHQにとって、岸より木戸のほうがはるかに重要な人物だったのである。

GHQが木戸を重視したのは、ひとえに彼が昭和天皇の第一の側近だったからだが、それともう一点、忘れてならないのは木戸日記の存在である。

東京裁判研究で知られる粟屋憲太郎・立教大学名誉教授によれば木戸日記は〈天皇を頂点とした昭和政治史の中枢を検証する第一級の政治資料〉だ。それはGHQにとっても、A級戦犯たちを訴追するための最重要証拠だったことを意味した。

ここで1946(昭和21)年2月25日に行なわれた第20回木戸尋問を再現してみよう。尋問官のサケット中佐は、木戸日記の記述を一つひとつ確認しながら取り調べを進めている。

中佐「(1941年)2月26日の日記に出てくるこの岸氏ですが、東条内閣で大臣になった岸信介のことですか」

木戸「そうです」

日記にはこう書かれていた。

〈二月二十六日(水)晴

……六時、星ヶ岡茶寮に於て……小島商工次官、岸信介氏と会食す〉

星ヶ岡茶寮は永田町の料亭だ。岸は前月に商工次官を辞めたばかり。木戸も商工省出身だから、商工省の現役・OBの有力者が顔をそろえたことになる。サケット中佐の問いがつづく。

中佐「彼(岸)は右翼でしたか」

木戸「いいえ、右翼ではありません。最も有能な官吏の一人でした」

中佐「彼は保守派に含まれますか?」

木戸「彼は官吏としては非常に進歩的な考えの人でした」

中佐「彼は東条首相の親友でしたか」

木戸「東条と古くからのつき合いはなかったと思いますが、満州で官吏をしていたので満州にいる間に知り合ったのでしょう」

中佐「彼を膨張主義者の一人に数えることができますか」

木戸「いいえ、膨張主義者とみなすことはできません。彼は武力に訴えずに進出したいと考えていたと思います」

おわかりと思うが、木戸は岸をかばっている。岸は東条らの支持を背景に出世してきた男だ。だから中佐も「膨張主義者」かと訊いたのだが、木戸は全面否定した。粟屋名誉教授は〈尋問調書のなかでのこの木戸の岸への弁護は異色〉だと言う。

この尋問から10日後の3月7日、岸の第1回尋問があった。担当したのはG・サカナリ中尉ら2人。岸は自分が3年にわたって支えた東条内閣の末期についてこんな趣旨の供述をした。

「(1944年7月9日に日本軍が全滅した)サイパンの戦いのあと東条内閣内の軋轢が強くなった。私はそれまでずっと東条の信頼する助力者だったが、次第に東条への不信感が頭をもたげてきた。私は東条に『もしこんな事態がつづけば、日本の工業生産能力は爆撃で破壊され尽くしてしまう』と言った」

岸の言う通り、米軍のサイパン制圧で日本全国どこでもB29の爆撃にさらされるようになった。残る道は、無理を承知でサイパン奪還を試みるか、降伏するかしかない。が、東条はどちらも選ばず、いたずらに被害を拡大させるだけだった。

そんな東条に海軍大将の岡田啓介や元首相の近衛文麿ら重臣たちが危機感を強め、木戸を巻き込んで倒閣工作を本格化させた。これに対し東条は内閣改造で立て直しを図るため、岸に辞任を求めた。その直後の出来事が木戸日記に記されている。

[Photo]iStock
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