日本史 キリスト教
徳川以来、この国の政府がキリスト教を公式に「解禁」した事実はない
明治政府の本音と、黙認した事情

一般に、江戸時代はキリスト教は禁止されていたが、明治に入って「解禁」されたというイメージが持たれている。しかし、実情は全然違ったのだ。近代日本とキリスト教の微妙な関係を、コラムニスト堀井憲一郎氏がずんずん調べる。好評連載第8回(→第1回はこちら

明治政府もキリスト教を禁止していた

明治になっても、日本ではキリスト教は厳しく禁止されていた。

明治政府も切支丹を敵視していた。そう考えたほうがいい。

開国して米英仏露などの異人が日本にやってきて、また宣教師も続々と入国してきた。徳川政府はもちろん、それを倒した薩長による維新政府も「切支丹は堅く御制禁」であった。

徳川政府が倒れ明治になるとキリスト教は自由に信仰できた、という印象を持たれることがあるが、そんなことはいっさいない。

見ようによっては、明治以降のほうが、より厳しくキリスト教は禁じられていたとも言える。

開国以降の日本のクリスマスを細かく見ていくためには、開国以降、とくに〝明治期の日本のキリスト教状況〟を見ておかないといけない。そうしないと、クリスマスが誰に向けてどこで開かれていたか、わかりにくくなる。

〔PHOTO〕iStock

* * *

1853年にペリー提督がやってきて、威圧的に日本を開国させた。

もとより〝鎖国〟という状態は、日本国内にキリスト教徒をおかず、キリスト教徒である外国人を日本人と触れさせない、ということを目的に遂行された政策である(前々回参照 http://gendai.ismedia.jp/articles/-/49679)。

無理やり開国させられたとしても、その政策が守られれば、徳川政府としては何とか一線を守れることになる。開国しても日本人を切支丹にしない、そこが大事なのだ。

徳川政府はそういう方針を採った。異人のキリスト教徒がやってきて、自分たちだけのために教会を建て、自分たちだけでその宗教を祀っているのはかまわない。ただ、ぜったいに日本の宗教に干渉しないよう、取り決めている。

キリスト教徒たる外国人が住むエリアを指定し、日本人と自由に接触しないように計らった。居留地である。

関東では、横浜港に大きな居留地を作り(それまで何もなかった寒村であった)、東京の築地にも居留地エリアを作った。あとは、大阪、神戸、函館、長崎に限定して住まわせた。

国内日本人に向けては、切支丹は御制禁、という施策は変わらない。

しかしキリスト教側は布教をもくろみ、宣教師がつぎつぎとやって来る。

長崎の浦上村の潜伏キリシタンが、大浦の教会にやってきて宣教師と接触し、その影響から仏式の葬式を拒否したことがあった。当然、社会の安寧を乱すものとして、一挙に捕縛された。浦上四番崩れと呼ばれる事件である。1867年の徳川政府最末期に起こった事件なので、最終処理は明治政府がおこなうことになった。

明治新政府は、死罪にはしなかったが、流刑にした。多くの者が流刑先で獄死した(流刑先は、萩、津和野、福山)。

新政権になっても、キリスト教のことは堅く禁じられていた。

この続きは、プレミアム会員になるとご覧いただけます。
現代ビジネスプレミアム会員になれば、
過去の記事がすべて読み放題!
無料1ヶ月お試しキャンペーン実施中
すでに会員の方はこちら