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いつか戦闘機のパイロットに…マグロ大王の「夢」と「挫折」と「転機」
島地勝彦×木村清【第4回】

撮影:立木義浩

第3回【ソマリア海賊撲滅作戦の真相

シマジ 木村社長はもう小学生のころからアルバイト三昧の毎日だったそうですね。

木村 はい。なぜかといいますと、わたしが4歳のときに、父親が交通事故で亡くなりまして、急に家が貧しくなってしまったからです。

シマジ そうでしたか。どういう交通事故だったんですか? 差し支えなければ聞かせてください。

木村 ある日父は鴨撃ちに出かけ、その帰りみち、トラックに後ろから轢かれてしまったと聞かされています。わたしは4歳でしたが、葬式のことをかすかに覚えています。みんな悲しそうにしていました。

トラックを運転していた若いお兄さんがきて「この人が悪いんだ」と嘆き悲しみながら叫んでいたのを覚えています。みんな号泣しているのがいたたまれなくなってわたしは外に出ました。そしてふと空を見上げると真っ赤な戦闘機F-86セイバーが飛んできたんです。

わたしはすっかり魅了されてしまい、「ようし、将来、自分はパイロットになる」とこころのなかで思いました。父を亡くした悲しみのなかでみた戦闘機の格好よさが強烈に脳裏に刻まれたのです。

シマジ 一家の大黒柱を失って生活が一変したんですね。

木村 そうです。それまでの恵まれた生活から一転、苦しい環境で育つことを強いられたんです。ですから、まだ小学校に上がる前から、家のためにアルバイトをしてお金を稼いでいましたね。幼稚園に入るお金がなかったけど、時間だけは十分にありましたから、ウサギやハトを育てて売ったり、ニワトリの卵を売ったりして家計を助けていました。

シマジ ウサギは食用なんですか?

木村 いえいえ、千葉大の研究用に需要があったようで、そこに売っていました。ウサギは2ヵ月に1度ぐらいの割合で5羽か6羽の子を産むんです。1羽20円で大学が買ってくれたんです。子供にとってはいい収入でした。

シマジ 凄い生命力ですね。いまの木村社長の成功の秘訣は、幼少時代の艱難辛苦を乗り越えた精神力にあるような気がします。

木村 なんといっても母親が偉かったですよ。父親が亡くなったとき、精算したら2000万円もの借金が残ったんです。母の苦労はわたしと比べたら並大抵のものではありませんでした。昼間は野良仕事で、夜も寝る間を惜しんで内職していましたからね。

我が家には結構広い田畑がありましたが、母はそれを売らずに、少しずつ地道に借金を返し続けました。ですからわたしも小学1年生のときから田畑を耕していましたよ。はじめは牛を使っていましたが、さすがにわたしが小さすぎて牛に振り回されてしまいますので、耕耘機を安く譲ってもらい、それで耕していました。

そのうちにだんだんよその田畑も手伝うようになりまして、1反で300円稼げるようになりました。わたしはそのころからせっかちな性分で、まだちびっ子でしたが、1日2反くらい耕していました。

シマジ 当然新聞配達もやったんでしょうね。

木村 はい。新聞配達は小学2年生からはじめて、中学を卒業するまで続けました。

シマジ わたしの子供のころも新聞配達少年がたくさんいまして、わたしもやってみたくなって父親に相談したことがあります。そしたら、「カツヒコ、それだけはやめてくれ」といわました。

わたしは子供のときから本ばかり読んでいて宵っ張りで、小学校中学校時代は遅刻魔だったんですね。きっと親父は、わたしが寝坊してサボったら自分が新聞を配達しなければならなくなると恐怖したんでしょうね。

立木 それはありうる話だな。親父さんじゃなくてもお前には朝の早い新聞配達はさせないよ。木村社長とは根性がちがいすぎる。話にならない。

シマジ まったくお恥ずかしい話で申し訳ありません。

木村 シマジさんのお父様はなにをやっていたかただったんですか?

シマジ うちの父は学校の教師でした。

木村 学校の先生が息子の代わりに新聞配達していたら格好悪いですものね。

シマジ 木村社長もわたしには新聞配達は出来ないと思っているんですね。あのころ一瞬、憧れたんですよ。

木村 小学3年になったとき、たまたま同級生の父親が千葉カントリークラブの支配人をやっていたので、頼み込んでキャディの仕事もやらせてもらいました。

シマジ えっ、小学生がキャディですか。それは凄い。

木村 土日のアルバイトとしては実入りがよかったですよ。たしか3000円ほどもらっていたと記憶しています。キャディで稼いだお金はほとんど、学校にかかる費用に充てていました。信じてもらえないかもしれませんが、じつは学校の成績もよかったんですよ。

中学3年のときは、5科目で学年いちばんになりました。この成績なら県内屈指の名門進学校である千葉県立東葛飾高校も大丈夫だといわれていたくらいでしたが、しかしながら家が貧しく高校の学費を払える環境ではありませんでしたから、担任の先生に相談したら「進学する気がないのなら、受験はするな」といわれたんです。

理由を聞くと、学年2位の女子生徒がその高校を目指していたので彼女の合格の可能性を低くしてはいけないということでした。そしてその先生がこうアドバイスしてくれたんです。

「木村、自衛隊に行ったらどうだ。中卒でも入れるし、お金ももらえる。航空自衛隊に行ったら、お前の夢だった飛行機にも乗れるぞ」

これが人生の進路を決めた瞬間でしたね。

そんなわけで、わたしは中学を卒業すると埼玉県熊谷市にある航空自衛隊第4術科学校生徒隊に入隊しました。一日も早く戦闘機の操縦桿を握りたい一念で住み慣れた家をあとにしたんです。母は「人に後ろ指をさされるようなことだけはするな」といってわたしを送りだしてくれました。

シマジ 15歳で親元を離れて自衛隊生活がはじまったんですか。

木村 そうです。ところが訓練が厳しくて厳しくて、入隊して1ヵ月半で腕立て伏せが1000回出来るようになりました。途中でお腹が地面についたらやり直しで、100人の新人のうちで1人でもダメだったら、全員でまたやり直し。3ヵ月の訓練期間が終わるころにはみんなの顔つきや体つきがすっかり変わり、まるで大人のようにみえたものです。

シマジ 戦闘機のパイロットになるためには、きとそれくらいの訓練が必要なんですよね。

木村 わたしもそう思っていました。でも、来る日も来る日も腕立て伏せばかりだったので先輩に訊いてみたんですよ。「先輩、いつになったら飛行訓練が出来るんですか」と。すると先輩は呆れ返ってこういいました。

「お前、本当に知らないのか。おれたちは飛行機には乗れないよ。だっておれたちは“トンツー”なんだよ」

トンツーというは通信兵のことです。

「えっ、入隊するときに『きみたちはF-104に乗れるんだぞ』と説明を受けましたけど」

「馬鹿野郎、みんなにそういっているんだよ。おれたちもそういわれて入ってきたんだ」

シマジ それはショックでしたでしょうね。

木村 ショックでしたよ。戦闘機のパイロットになるためには、大学に入って航空機の操縦学生になる必要があったんです。でもパイロットになる夢は諦めきれず、自衛隊で働きながら、埼玉県立浦和高校の通信課程を受講していました。普通にやっていたら卒業まで4年もかかるところを、早く資格を取得するために2年半でいわゆる大検(大学入学資格検定)を受けたんです。結果は合格、競争率30倍の難関を突破して、空曹候補生の資格を得ました。

シマジ それはそうでしょう。小中高時代アルバイト三昧に明け暮れながら中学3年のとき1番なるくらいの頭ですから、本気で勉強したらそんな試験は楽なものだったでしょうね。

木村 戦闘機のパイロットになる幼いころの夢は、そう簡単にあきらめられるものではありませんでした。それでも「前例がない」という理由でパイロットの部署には回されず、バッジシステムと呼ばれるコンピュータを扱う部署に回されたんです。

それでも「いつかチャンスが巡ってくる」と信じて、朝晩10キロほど走って体を鍛えていました。航空自衛隊に入って4年目、すでに3等空曹になっていました。当時わたしは三重県津市の笠取山分屯基地で訓練を受けていたのですが、体を鍛えるために毎日レーダーザイトのある笠取山まで走っていました。

シマジ 木村社長のそういう夢をあきらめず不屈の精神で努力を続けるところが美しいですし、尊敬しますね。

木村 そんなある日、同じコースを走っていたときでした。右カーブのきつい道路を通過していると、突然、トラックが現れ、すれ違いざまに荷台に搭載されていた信管がガラガラと音を立てて崩れ落ちてきたんです。わたしはあっと思い、咄嗟に避けたのですが、頭を負傷してしまいました。

体には大きな怪我もなく大丈夫だったんですが、頭を負傷した影響で目の調整能力が低下してしまいまして、戦闘機のパイロットとしては「不可」になってしまったんです。

これにはわたしの努力ではどうしようもない。ついに幼少のころから持ち続けた夢は見果てぬ夢になってしまいました。「なんて残酷な運命なんだ!どうして自分がこうなってしまったんだろう」と失意のどん底に落とされた気分でした。

立木 シマジは必ずこういうだろうね。「人生は恐ろしい冗談の連続なのである」。

シマジ そうなんですよ。どんな人の人生も、ほんとうに恐ろしい冗談の連続です。

木村 そんなわけで、15歳から5年9ヵ月お世話になった自衛隊から退官することを断腸の思いで決意しました。パイロットになれないと決まった以上、娑婆に出て、何か他の道を目指そうと思ったんです。

一時はお先真っ暗になりましたが、この交通事故には不幸中の幸いもありました。事故に遭って入院した三重の樋口病院の看護婦さんと親しくなりまして、やがてその彼女が生涯の伴侶になったんです。

シマジ おめでとうございます。最後に運命の女神は木村社長に微笑んでくれたんですね。人生は一寸先は闇だけど、たまに光も射すものなんですね。

木村 まあ、子供のころから結婚するまでの人生はこんなものでした。ではみなさん、そろそろ河岸を代えて、まず「すしざんまい」の本陣でアイルランドの中トロを食べていただき、それからパッと銀座に繰り出しましょう。立木先生、お体を深夜までお貸しください。

立木 はい はい。今夜は覚悟していますよ。

シマジ では出発しましょうか。ヒノ、対談はこれで十分だろう。あとはいつもの過剰なるリアリズムの力にお任せあれ。じゃあ行くぞ!

一同 畏まりました!

〈了〉

木村清 (きむら・きよし) 株式会社喜代村代表取締役社長
1952年、千葉県東葛飾郡生まれ。中学卒業後、F-104のパイロットに憧れ、15歳で航空自衛隊入隊。18歳で大検を受け、航空操縦学生になる資格を得るも交通事故で目を負傷、パイロットの夢を断念し退官。司法試験をめざし中央大学法学部(通信教育課程)に入学。在学中に大洋漁業(現・マルハニチロ)の子会社、新洋商事に勤務。78年、喜代村の前身にあたる木村商店を創業。魚介類の仕入れ・卸売り・養殖、弁当販売、移動式カラオケ、レンタルビデオ、屋台村など、90種もの事業を手掛ける。85年、喜代村設立。01年4月、築地場外に日本初となる年中無休24時間営業の寿司店「すしざんまい本店」を開店し現在に至る。著書に『マグロ大王 木村清』がある。
島地勝彦 (しまじ・かつひこ) 1941年、東京都生まれ。青山学院大学卒業後、集英社に入社。『週刊プレイボーイ』『PLAYBOY』『Bart』の編集長を歴任した。現在は、エッセイスト兼バーマンとして活躍中。『甘い生活』『乗り移り人生相談』『知る悲しみ』(いずれも講談社)『バーカウンターは人生の勉強机である』(阪急コミュニケーションズ)『お洒落極道』(小学館)など著書多数。Webで「乗り移り人生相談」「Treatment & Grooming At Shimaji Salon」「Nespresso Break Time @Cafe de Shimaji」を連載中。最新刊は『蘇生版 水の上を歩く? 酒場でジョーク十番勝負

著者: 開高健、島地勝彦
蘇生版 水の上を歩く? 酒場でジョーク十番勝負
(CCCメディアハウス、税込み2,160円)
1989年に刊行され、後に文庫化もされた「ジョーク対談集」の復刻版。序文をサントリークォータリー元編集長・谷浩志氏が執筆、連載当時の秘話を初めて明かす。

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