社会保障・雇用・労働 読書人の雑誌「本」
定年後のエリートの悲哀を書いた『終わった人』が大ヒットした理由
俺の気持がなぜ分かる?との声が続出

本音を言えない「終わった人」たち

小説「終わった人」が多くの人に読まれ、映画化が進み、メディアで取りあげられ、こんなにも話題になるとは考えてもいなかった。

ただ私は、定年を迎えたり雇用延長を終えた人たちが、心の中では「もっと仕事がしたい」「俺の能力をもっと生かしたい」と思っていながら、それを口に出しにくいことを、20年ほど前から感じていた。定年にせよ雇用延長終了にせよ、それはたいてい60代で訪れる。60代は非常に若い。仕事をする体力も頭脳もまだ十分にある。その上、長年の経験は若い人にはない能力だ。もっと仕事がしたいと思うのは当然の本音なのに、社会は年齢でピシャリと切る。

「終わった人」の多くは、そんな本音を口にしない。口にすれば、「ワーカホリック」だの「貧乏性」だの、「他に楽しみがないのか」などと言われる。家族に至っては、正面から言い放つ。

「だから若いうちから趣味を持てと言ったのに。今から油絵を習うとか、そば打ちの講習会に出るとかしたら?」

「だから町内会の仕事もしておけって言ったでしょッ。お祭りからバス旅行までみんなで企画して、その後は飲み会やって仲よくなるのよ。あなたは仕事一筋で友達もいないんだから。それなのに、まだ仕事したいって何考えてンの」

これだから、「終わった人」たちは本音を口にできない。もっと仕事をしたい、能力を生かしたいという渇望は、油絵だのそば打ちでは代替できないのだ。「貧乏性」ではなく、給料は二の次で仕事をしたい。社会から必要とされたい。

だが、口にしにくい風潮の中、こう言うしかない。

「やっと晴耕雨読の生活を手にしました」

「温泉に行ったり、勉強し直したり、今までできなかったことを始めますよ! 楽しみだなァ」

本著の中に「身の丈に合った暮らし」という言葉が出てくる。「身の丈」は人それぞれであり、「もっと仕事をしたい」ということが身の丈に合っている人はいるのだ。そんな男を主人公にして、「定年小説」を書こうと思ったのが、本著の発端である。

人生は帳尻が合うもの

「終わった人」というタイトルは、すでに決めていた。

主人公はエリートがいい。雇用延長もできたが、その多くの場合、これまでのキャリアを踏みにじるような、バカにした仕事を与えられる。とてもプライドが許さず、応じなかった。結果、「毎日が大型連休」になった男の悲哀は、エリートの方が明確に出ると思ったのだ。

まさに仕事一筋の男だったため、友達もいないし、趣味もない。やりたいこともない。やりたいのは仕事なのだ。しかし、来る日も来る日も何とか時間をつぶさなければならず、見たくもない映画を見に行ったり、スポーツジムに入ったり、カルチャースクールに通ったりする。それでも「自分は老人ではない」という矜持があり、老人の溜まり場と言われる図書館には行かない。歩数計をつけて散歩もしない。昼間のジムは爺さん婆さんばかりだが、一線を画して仲よくしない。それでもやがて気づく。「傍から見たら、俺も単なる爺さんなんだろな」と。激しい落ち込みの中、悶々と日々を送る。

私はこの本音と悲哀をしつこいほど書いたのだが、びっくりしたのは講談社に寄せられる読者カードのコメントである。圧倒的多くが書いてくる。

「どうして男の気持がわかるんだ」
「これは僕自身がモデルかと思った」

本当である。担当編集者によると、こんなにも多く読者カードが来たことは、編集者人生で初めてだという。

モデルはいない。まったくいない。だが、自分がモデルかと思うということは、本音では「もっと仕事をしたい」と悶々としている人が、いかに多いかという証拠ではないか。

主人公をエリートにしたのは、もうひとつ理由がある。

私自身が還暦を迎えた頃、急にクラス会や昔のサークルの食事会や、古い仲間たちとの集りがふえた。それらのメンバーはほぼ同年代である。定年になって暇があり、幹事を引き受ける人が出て来たのだろう。

それらに出席してみて、感じた。男も女も、エリートも非エリートも、美人も不美人も「終わった人」としての着地点は大差ないなァと。

むろん、終わるまでの人生には差があろう。エリートや美人ならではの幸せな経験や、高揚することや、稀有な僥倖もあったはずだ。それらは人生の過程において、非エリートや不美人は手にしえないものが多いに違いない。

だが、「終わった人」になると、みんな横一列に着地している。そう思えてならなかった。むしろ、エリートや美人は過程が華やかだっただけに、「終わった人」の状況に対し、より切なさを抱いているように見え、非エリートや不美人は、うまくソフトランディングができている気がした。

ああ、人生は帳尻が合うものだと、何度感じさせられたかわからない。本著の主人公もそれを感じ、次に生まれてくる時は一流大学、一流企業、出世コースという人生は選ばないと思ったりもする。