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なぜ大人たちは「若者」を語りたがるのか? 幻想、暴論、狭い正義…
「若者論化」した現代思想からの脱却

保守的な時代認識と事実誤認

私はここまで「現代ビジネス」の一連の記事で、現代の若者論について見てきました。

若者論を蒐集してきて改めて気付かされるのは、若者論というのは、そのときどきの若者の実像を反映しているのではなく、むしろそのときどきの時代の欲望を反映しているものであると気付かされます。

あるいは、そのときどきの「青少年問題」をダシにして、社会を語りたい欲望の発露といったほうが適切でしょうか。

例えば、『世界』2004年2月号の特集「私たちは若い世代を『育てている』か」。編集部によってつけられたと思われる特集の巻頭言には、2000年代前半の若者論のテンプレートが詰まっています。全文を引用してみましょう。

子どもをめぐる「事件」が多発している。昨年夏の長崎の児童殺傷事件や沖縄のリンチ殺人事件など、子どもたちが加害者となって引き起こす事件・犯罪も深刻だ。しかし、虐待や、小中学生の拉致・監禁をねらう事件などのような、子どもたちを被害者とする事件・犯罪も劇的に増加している。

ケータイの普及によって、小学生が繁華街に出入りし、中高生が夜のふけるまで盛り場を徘徊するようになった。その中で、事件に遭遇することも多い。子どもたちの行動形態、関係のつくり方は、明らかに変化している(略)。

大人の社会は、いつの世であっても、子どもたちを愛情をもって守り、次代を担うものとして、大事に育てようとしてきた。いつの間にか、現代の日本には、この「育てる」という視点がなくなってきているのではないだろうか。

子どもたちは、企業やメディアによって欲求を煽られ、商品を売り込まれる重要な消費者と位置付けられた。同時に、自分たちも消費と性の対象にされてしまった。一方で、仕事と未来への希望は与えられていない事件・犯罪を起こせば、一転してメディアは子どもや親を叩き、政治家は厳罰だけを口走る。

私たちの社会に、何が起きているのか。若い人々は、どんな環境に生きているのか。

私たちは、次の世代を「育てている」か。

左派の雑誌である『世界』ですら、こういった事実誤認と保守的な時代認識に基づいた若者論が掲載されていたのです。

それほど、2000年代の〈劣化言説の時代〉における若者論というものの、人々を保守的な方向に向かわせる引力というものは極めて強かったと言えるでしょう(こう書くと左派系の『世界』ばかり叩いていると思われるかもしれませんが、保守系の雑誌は「推して知るべし」と言っておきます)。

この文章にはいくつもの事実誤認と幻想が含まれています。

まず事実誤認に関して言うと、《子どもをめぐる「事件」が多発している》と言いますが、どのような事件を《子どもをめぐる「事件」》と言うのかが曖昧なままです。

少なくとも、少年による凶悪犯罪の検挙件数が昭和30年代と比べて大幅に減少していることはよく知られています。法務省の平成27年版『犯罪白書』によると、少年による刑法犯、一般刑法犯の検挙件数は1985(昭和60)年頃から概ね一貫して減少しています。

子どもたちを被害者とする事件・犯罪も劇的に増加している》とも書いていますが、この特集内でそのようなデータが示されたことはありません。また、《ケータイの普及によって、小学生が繁華街に出入りし、中高生が夜のふけるまで盛り場を徘徊するようになった》も同様です。

このように、前段は、現代の子供への、データに基づかない勝手なまなざしが非常に多く見られます。

後半は、事実認識の違いと言うよりは、むしろ子供に対する幻想を表した項と見ていいでしょう。

まず、《大人の社会は、いつの世であっても、子どもたちを愛情をもって守り、次代を担うものとして、大事に育てようとしてきた》とありますが、警察庁の「犯罪統計書」によると、2000(平成12)年の嬰児殺の認知件数は33件、検挙件数は31件で、2014(平成26)年になると認知・検挙件数共に12件まで減少します(「犯罪統計書」)。ところが1972(昭和47)年には、嬰児殺の被害数は174件あったとされています(「少年犯罪データベース」)。

また、憲法や労働基準法で児童労働が禁止されているのは過去に過酷な児童労働があったからでしょう。

我が国でも、平安時代には既に児童の人身売買があり、近代以降でも、欧米諸国より数は少ないとはいえ、小学生の女子が家計のために中退させられて働かされることもあったようです(藤野敦子「日本の児童労働——歴史に見る児童労働の経済メカニズム」)。

そもそも、子供は大切に育てられるものだという認識そのものが、近代以降のごく一部の社会階層のみのものであり、戦後になってようやくあらゆる階層に広まったということを付け加えておく必要があるでしょう(広田照幸『日本人のしつけは衰退したか——「教育する家族」のゆくえ』(講談社現代新書、1999年)などを参照)。

子どもたちは、企業やメディアによって欲求を煽られ、商品を売り込まれる重要な消費者と位置付けられた》というのは、1980年代以降に見られるようになった、我が国の子供は「消費者」として生きるようになって、大人たちとはまったく違う存在となった、という議論でしょう。

しかし、このような議論は、子供たちを「理解」するという名目でありながら、むしろ見放し、分断するものだと思えてなりません。