曽野綾子独占手記 夫・三浦朱門を自宅で介護することになって
そのとき、私は覚悟を決めたのです
週刊現代 プロフィール

五十年前、この家の図面を引いたのは私であった。夫は新築の家を建てることにも全く興味がなくて、「知寿子(私の本名)の好きなようでいい」の一言で自分が受け負わなければならない義務を放棄しようとしていた。だから私は予算を頭に入れながらも好きなように間取りを書いたのだが、五十年以上経った今、改めて一人の高齢者を看護しなければならない立場になっても、間取りに全くの不自由がないのである。

第一に半世紀も前の家なのに、この家には段差がなかった。敷居もない。夫の生活状態を見にきたケアマネージャーさんが驚いて「この家は車椅子も動くようになっていますね」と言ってくださったが、それほどつまらない使い勝手のいい家なのである。当時少ししゃれた住宅は、食堂や客間の一部に装飾的な段差を付けたりしていたものだが、私はそうした装飾を一切省いていたのである。

既にそのときまでに、高齢の親たちを見るのは私たち夫婦しかない、ということを覚悟していたおかげで、私は高齢者を介護するときに発生するであろう幾つかの困難を予想することができていたのである。

つまずくこと。小回りがきかないこと。段差が辛いこと。孤立した空間に本人を置かないこと。トイレを汚すような事態になった場合に便器はおろかほとんど壁まで洗えるように、床に排水装置をつけることなどすべてを、その頃から用意してしまったのである。

理想の暮らしなんてない

もちろんそれから数十年間、私たち一家はごく普通の中老年として過ごした。息子は十八歳で地方の大学に行って独立し、後は三人の親たちと私たち夫婦だけの暮らしになった。この生活は私の母が八十八歳、夫の母が八十九歳、夫の父が九十二歳で自宅で亡くなるまで続いた。老人たちは一応「一病息災」の状態で暮らしてくれた。夫の母は気管支拡張症でときどき吐血したりしたが、一週間ほど入院して症状が治まると栄養注射を受けて元気になって帰ってきた。

この母は新潟県出身で、つまり私は県民性だと思い込んでいたが、恐ろしく質素と言うかケチであった。新しく軽い布団を用意すると「私は昔風だからずっしりした重い布団でないと眠れない」というたちであった。そして私が用意した軽い羽布団をさっさとしまい込んでしまった。一方私の母は福井県出身で、どこか浪費家の性格をもっており、軽くて新しいものが好きだった。

布団の重さに関しては、銘々の趣味で使えばいいのだが、夫の母が家の修理をさせてくれないのは困った。「私たちはどうせすぐ死ぬのだから、このままでいい」と言うのである。私はこの夫の母が入院中に素早く畳を換え障子を張り替え、家の根太も直し、伸ばし放題に伸ばした庭のあじさいなどを刈り込んで、知らん顔をしていた。そうしないと二人が住んでいる古い家をなんとか保たせることができなかったからである。夫の母は実は大いに不満だっただろうが、表だって私に文句を言うような人ではなかった。

実母に関しては次回以下に譲るとして、私はそんな形で、どうやら家族の体裁だか、無届けの養老院だかの暮らしを整えていたのである。理想の生活などこの世にあるはずがない、というのが、昔からの私の実感であった。

「週刊現代」2016年9月24日・10月1日合併号より