曽野綾子独占手記 夫・三浦朱門を自宅で介護することになって
そのとき、私は覚悟を決めたのです

いまや「自宅で介護を受けたい」と望む高齢者は半数近い。しかし、肉親にとってはそれなりの心の準備が必要だ。夫90歳、妻84歳—老年と向き合ってきた作家が、初めて語った在宅介護生活。

「僕は幸せだ。ありがとう」

夫は二〇一五年の春頃から、様々な機能障害を見せるようになった。内臓も一応正常。ガンもない。高血圧も糖尿病もない。私と違ってすたすた長距離を歩く人であった。しかしその頃から時々、すとんと倒れるようになった。その度に頭を打ってこぶを作り、顔面に青痣を作った。もっともその頃は、「この痣ですか? 女房に殴られたんです」と嬉しそうに言えるほどに普通だったが、次第に寡黙になって来た。今でもテレビを見ながら痛烈な皮肉を言うことはあるが、恐らく性格の変化は認知症の初期の表れだったのであろう。

どこが悪いか検査するための入院をしたのが二〇一五年の秋だが、その短い入院の間に、私は日々刻々と夫の精神活動が衰えるのを感じた。ほんとうに恐ろしいほどの速さだった。病院側は、実に優しくしてくれたのだが、私は急遽、夫を連れ帰ってしまった。

家に帰って来た時の喜びようは、信じられないくらいだった。「僕は幸せだ。この住み慣れた家で、廻りに本がたくさんあって、時々庭を眺めて、野菜畑でピーマンや茄子が大きくなるのが見える。ほんとうにありがとう」などと言うので、「世の中何でも安心してちゃだめよ。介護する人の言うことを聞かないと、或る日、捨てられるかもしれないわよ」と私は決していい介護人ではなかった。

しかし私はその時から、一応覚悟を決めたのである。夫にはできれば死ぬまで自宅で普通の暮らしをしてもらう。そのために私が介護人になる、ということだった。

日本が老齢人口の過剰に国家として耐えられなくなってくるだろう、ということに気がつきだしたのは、もうずいぶん前のことだが、私がそれを作品に書いたのは二〇一三年の末のことである。私はその小説を、一種の未来小説として書き、『二〇五〇年』という題を付けたのだが、この危険で破壊的な小説の内容は、当時あくまで空想上のことであった。

むしろ現在だったら、私はこの作品を書けなかっただろう。最近の世相には、小説の中ですら、暗い話、非道徳的な話を書いてはいけないとするおかしな幼児性が、主にマスコミ自体の中に顕著に出て来たからである。それは小説作法の常道からは外れた考え方である。むしろ小説こそが、現世ではみ出た異常性、道徳に反する思想、などに光を当てるという任務を担ってきた。

どういう点が危険だったかというと、私は作品の中で、若者のグループが老人ホームの火事によって、多勢の焼死者が出たのを喜ぶという場面を書いているのだが、それはあくまで社会の末期的な暗い状況として描いたので、今ならば、相模原市の知的障害者施設の元職員・植松聖という人が、「不要な人を社会から抹殺することを目的に」、十九人を殺し二十七人に重軽傷を負わせた事件があったから決して書かなかったに違いない。

もちろん社会現象とは別に、私は八十代になっていた。作家は常に善悪にかかわらず、自分の立っている現在の位置を自覚して生きているのが普通だ。私は十分に年を取り、人間の個体としてあらゆる面で劣化し、時には差別され軽視されてしかるべき年になったから言えるようになった分野もあることを自然に感じていた。作家は完全な観念でものは書きにくい。笑い話のようだが高齢者には、ひがみと自信の双方があって自然だ。

親たちを自宅で看取った

この二面性を、敢然として、しかし自然体で持ちうることは、一種の技術かもしれない。例えばアウシュビッツの一種の「全盛期」について、私たちは資料では惨憺たる強制収容所の日常のみを読まされたものだが、その中には意外にも、「囚人」たちが歌を歌い楽しんだ時間もあったという記録もある。それを描かなくては、本当の強制収容所の悲惨さは記述できないだろう。

つまり、人生というのは善悪明暗が必ず渾然としたものなのだ。だから、私は連作として書くつもりの『二〇五〇年』の中でも必ず明るい部分を書く予定なのだが、私たちが直面している老齢人口の過剰、若年層の減少という基本的な力関係は、小説の前提として重く存在していることには間違いない。このような小説の背景を、私はひたすら統計を読むことから推測していったにすぎないが、人間の感覚もまた、単純ではないだろう。

私はいま東京の南西の端の住宅街に住んでいる。そこはそもそも私の両親が住んでいた土地であった。私は一人娘だったから、自然にそれを受け継いだのである。そこに夫の両親が隣接の古屋つきの土地を買って引っ越してきたのであった。だから私たち夫婦は本来なら、四人の親たちと住むはずだったのだが、私の両親は六十歳を過ぎてから離婚してくれたので、父は再婚相手の若い奥さんと、別の土地で一緒に暮らすようになった。

「離婚してくれた」という言い方はおかしいといわれそうだが、私の両親はそれほど若いときから性格が合わず、家庭は「火宅」同様だったから、私は二人が正式に別れてくれた時には、実はほっとしたのである。

その結果、私は三人の親たち(夫の両親と私の実母)全員が自宅で息を引き取るまでいっしょに暮らし続けた。

実状を語れば単純な話だ。しかしそこには、多少とも複雑な事情があり、私自身はその間作家としての仕事も続けていたので、親孝行に関しては、現実問題としてできるだけ手抜きをする他はなかった。見捨てて別居しようとは全く思わなかったのだが、昔風に親に仕えるという姿勢の暮らしをする余力は全くなかったのである。