「世界と戦える、次なる選手を育てたい」―ある日本人格闘家の挑戦
その名はZENKO【後編】

デビュー戦、ファイトマネーは二万円

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吉田善行は遅れてきた格闘技選手であったといえる。
 
プロとしてのデビューしたのは2005年2月。29歳のときだった。デビュー戦のファイトマネーは二万円だったという。吉田は都内の私立高校で柔道を教えながらリングに上がっていた。

やがて吉田は力をつけていったが、2007年に「PRIDE」が消滅。彼は日本の格闘技ブームの恩恵を受けることはなかった。
 
そこで34歳のとき、UFCに参戦。初戦は勝利したものの、二試合目は敗戦。練習拠点をアメリカのニューメキシコ州アルバカーキに移した。第三戦は勝利。しかし、その後、二敗し、UFCをリリースされた。2010年5月のことだった。

「その前に膝の手術をしていて動きが悪かった。連敗だったし、試合内容も良くなかったので、リリースされるかなと思っていた。試合の直後、マネージャーからリリースされたことをメールで知りました。ぼくの誕生日、5月10日でした」
 
勝利が続けばファイトマネーは上がっていくが、負けが込めばお払い箱となる。アメリカらしい実力主義ともいえる。
 
吉田が今も後悔しているのは、四試合目のアンソニー・ジョンソンとの試合である。
 
計量の日、ジョンソンは契約体重170ポンド――77.1キロを6ポンド(約3キロ)オーバーしていた。それでも吉田は「やってやるよ」と試合を受けることにした。
 
計量は試合前日に行われる。絞り込んでいた身体に水分や食べ物を入れると、干からびたスポンジに水を含ませるかのように身体は一気に膨らむ。
 
試合当日、元々188㎝と吉田よりも8㎝も身長が高いジョンソンは吉田よりも遙かに大きくなっていた。体格の差は打撃の衝撃に影響がある。吉田はジョンソンの右ストレートを受けてテクニカルノックアウト負けした。

ジョンソン戦。吉田は果敢に攻め込んだのだが…【PHOTO】gettyimages

ちなみに、その後、ジョンソンは減量に耐えきれなかったのだろう、205ポンド(約93キロ)以下のライトヘビー級にクラスをあげている。

そして時間だけが過ぎていく…

リリースされた後、吉田はどうしたらUFCに戻れるだろうか、ばかり考えていたという。

「やるからには世界最高峰の舞台でやりたい。UFCの凄さを自分は体感して、こういう世界があるのだと驚いた。とにかく選手をプロとして扱ってくれる。ギャラもそうだし、プロモーション(活動)など日本とは規模が違う。周囲のケアも含めて本当に自分はプロとして格闘技をやっているという感覚があったんです」
 
UFCの目に留まるため、ベラトールというアメリカの団体のリングに登り、アメリカのシカゴで練習するようになった。

「最初の一ヶ月半はジムの倉庫で寝てましたね。その後にアパートを借りました。強くなることだけを考えたらアメリカにいたほうがいい」
 
このジムではレスリング、ボクシング、ムエタイなどそれぞれ専門のコーチの指導を受けることができた。

しかし――。

「UFCに戻るために海外での試合を探していたんですけれど、決まったと思ったら試合がなくなったり……。UFC以外はプロモーター(の運営)も安定していない。結局、試合がないまま時間が過ぎていった」
 
アメリカ、シンガポール、フランス、フィンランドで試合をした後、吉田は日本のリングに戻ることにした。
 
2014年の大晦日には、さいたまスーパーアリーナで行われた『DEEP DREAM IMPACT 2014~大晦日special~』のメインイベントとして、ライト級チャンピオンの北岡悟と対戦し、敗れた。この敗戦は吉田にとって、一つの区切りとなった。

「北岡選手に敗れて、年齢的に考えてもUFCには戻るのは厳しくなった。その後、モチベーション的に、なんで試合をやるのかなと悩んでいた時期もありました。ただ、負けたままだと嫌だった。去年の十月の試合で勝って、ちょっと納得できたところがあったので、次に動き出すことにしました」
 
次、とは自らのジム開設である。
 

頭にあったのはアメリカでの経験だ。

「自分はまだ現役の選手なので自分が強くなりたいというのはもちろんですが、いずれ世界で戦う選手も育てたい。日本では格闘技で飯を食べるのは難しい。ただ、アメリカではそうではない。例えば、日本ではなく最初からアメリカでデビューしてもいい。プロになりたいという選手がいれば、より良い環境を与えてあげたい。そういう環境を作って行きたいと考えています」