経済学
人間は理性ではなく感情で動く!「行動経済学」が切り開いた地平
第一人者による必読書を読む

市場の「破滅」に賭けた男たち

ブロックチェーンについて扱った前回、Fin-Techは2008年に世界経済を襲ったリーマン・ショックを受けて発展したと記した(http://gendai.ismedia.jp/articles/-/49437)。

そのリーマン・ショックの顛末を扱った映画が『マネー・ショート』だ。

原作はマイケル・ルイスの“The Big Short”で『世紀の空売り』という邦訳も出ている。ルイスは『マネー・ボール』や『ライアーズ・ポーカー』で有名な、現代アメリカを代表するノンフィクション作家の一人だ。

よく知られるように、リーマン・ショックではサブプライムローンが焦げ付き、それを元にして金融工学的に作られた証券(CDO)も暴落し、その結果、ウォール街の老舗投資銀行であったリーマン・ブラザースが破綻した。

当時すでに国際化され24時間体制で稼働していた金融市場には、CDOだけでなくそれらをさらに分解・合成して組成された二次証券(合成CDO)も流通していた。そのため影響の及ぶ範囲を局所的に封鎖することができず、結果として国際的な金融破綻を連鎖的に起こしてしまった。

その破綻は金融経済だけでなく実体経済にも及び、アメリカ製造業の象徴であるGM等の自動車ビッグ3の救済にまで至ったことは記憶に新しい。

この顛末については、すでに多くの解説がなされ、原因究明もなされてきているわけだが、ルイスの原作は、リーマン・ショック以前の、イケイケな空気が充満し沸騰し続けた金融市場の内部にいながら、数年前からこの市場のヤバさにいち早く気づき、市場が破綻する側に大きく逆張りに賭けた三組のチームの動きを描いている。

だから原題にあるBig Shortとは、「市場が破綻するショートポジションを取った蛮勇」ということになる。具体的には、市場が破綻した時にその破綻を補填する「保険」としてCDS(ある債券の信用リスクを移転させるための証券)を購入する話となる。

2008年9月15日のリーマン・ショックその日までいわば保険の掛け金(プレミアム)を払い続けることになるのだが、その様子が、件の三組以外の人びとの目には狂気の沙汰としてしか映らない。

CDSを売る側の投資銀行からは、こいつらバカなの? と思われ続け、ファンドの出資者からもお前らアホか? と詰問され資金をひきあげようとされる。

しばしばファンドにおいては、ポートフォリオを組んだら仕事はおしまい、とお気楽なことがいわれるが、しかしさにあらず、胃をキリキリと傷めつけるものであることがひしひしと伝わってくる。

しかも市場の「破滅」に賭けているわけだから、最終的に勝ったとしても、その勝ち方は決して手放しに喜ぶことができるものではない。勝てば自分を除いて周りは破滅、負ければ完全に自分が破滅、というシナリオはあまりにも辛い。

ルイスの作品はいずれもノンフィクションらしく、常に成功と失敗の両面から人間を描き、その分ペーソスに溢れるものなのだが、それにしても三組の彼らが取った行動はそもそも「詰んで」いる。苦いビターな出口しかない。

マネーゲームの本質

とはいえ映画そのものは、リーマン・ショックに至る流れを掴むためにはよくできており、2010年代の世界、とりわけFin-TechというITの応用領域をその後生み出す(生み出さざるを得ない)大事件を理解するのに最適な作品だ。その分、教育的でもある。

そんな教育的狙いがはっきりとわかる場面が、経済学者のリチャード・セイラーが、あろうことか歌手のセレーナ・ゴメスとともにCDOの説明をするカジノの場面だ。

行動経済学の第一人者、リチャード・セイラー〔PHOTO〕gettyimages

強運が続くプレイヤーの周辺には、そのプレイヤーの勝ちっぷりを見届けようと、自ずからギャラリーが集まってくるものだが、セイラーは、そんなギャラリーの一人として、実名でちゃっかり登場する。

セイラーの解説の要点は、ギャラリーたちの中には、プレイヤーが勝つかどうか自体について、さらに「賭け」を行うものが出てくるところにある。テレビ中継されるスポーツの試合を酒場で見ながら、その場の飲み代を誰が払うか賭けをするのと同じことだ。

この即席のブックメーキングの様子を見ると、なるほど本当に金融市場は、一種のゲームの場として見られているのだ、ということも直感的に理解できる。

興味深いのは、そうした「賭け」の観察者たる第三者による新規の「賭け」はそれだけで終わらないところだ。セイラーの説明が教育的であるのもそこである。

どういうことかというと、賭場の賭けの勝敗に「賭けた」2人を見て、その2人による「賭けに対する賭け」はどちらが勝つのか、さらに賭ける奇特な2人が現れる。そうして賭けの結果について賭ける新たな「賭け」が、まるで波が伝わるように内から外へとギャラリーの間に広がっていく。その都度、賭けの賭けのそのまた賭け……、といった事態が生まれる。

しまいには、もはやギャラリーとはいえないほど遠くにいる人たちにまで伝播する。何に賭けているかわからないが、それでも賭けそのものは成立してしまう。

なるほど、こうして「「「賭けのまた賭け」のまた賭け」の……」が続いていくのであれば、それは「賭けの合意」だけで発現する一種の「錬金術」であり、金融経済が、実体経済をはるかに超える規模にまで膨れ上がるのもわかる。文字通り、マネーゲームと化しているのだから。

そして、そんな欲望まみれの「ゲーム」と化したのであればこそ、わざわざセイラーがこのペーソス溢れる映画に登場したのも理解できる。

彼の専門である行動経済学とはまさに、人間の理性ではなく感情が、知性ではなく習慣が、経済活動の一つ一つの判断を支えるものであるという人間観/世界観にもとづいて考案されたものであるからだ。