内田裕也が怖気立った、たけしの「凶行」
ビートたけしが演じた戦後ニッポン(3)

俳優・ビートたけしはこれまで多くの「昭和の大事件」の当事者を演じてきた。大久保清、千石剛賢、田岡一雄、金嬉老、東条英機。さらには、3億円強奪事件の犯人、豊田商事会長刺殺事件の犯人、エホバの証人輸血拒否事件で死亡した男児の父親……。

そうした現代史とたけしの半生を重ね合わせながら、戦後の日本社会を考察する好評連載第3回。今回は、劇場型犯罪やメディアによる報道のあり方を検証する一方、ビートたけしにとっての「事実と演出のあいだ」に迫った。

第1回はこちらhttp://gendai.ismedia.jp/articles/-/49228
第2回はこちらhttp://gendai.ismedia.jp/articles/-/49394

「あの事件」を予見?した映画

「犯人は、おまえ違う、わしや。貸せや!」

ビートたけし演じる中年男はそう言うと、一緒に来た髭面の男から銃剣をとりあげた。いましがた、金城商事会長の永田を刺したばかりの凶器だ。現場に集まった報道陣がカメラを向けるなか、男は血だらけの銃剣を掲げた。その表情に悪びれた様子はまったくなく、むしろ誇らしげだ――。

これは1986年に公開された映画『コミック雑誌なんかいらない!』(滝田洋二郎監督)の終盤の一場面である。そこでは、前年に大阪市で起こった豊田商事会長の永野一男刺殺事件が、企業名や人名は変えつつもかなり忠実に再現されていた。たけしが演じたのは犯人二人組のうち主犯格の男だ。実際の男は事件当時56歳で、しかも話すのは関西弁と、その人物像は当時30代で東京出身のたけしとはかけ離れていた。だが、たけしは慣れない関西弁も気にさせないほど、この役をきわめてリアルに演じ切っている。

この映画を企画し、脚本(高木功との共同執筆)と主演も務めたのは、ロックミュージシャンの内田裕也である。たけしの起用も、この役には彼しかいないという内田の直感で決まった。二人が初めて接触したのは1981年末、内田の主催する年越しライブ「ニューイヤー・ロック・フェスティバル」のテレビ中継である。このとき、会場の浅草国際劇場の前で「内田裕也も、老齢に鞭打って、がんばってるんだな」などとさんざん悪態をついていたのが、漫才コンビ・ツービート時代のたけしだった。陰口ではなく、正面切って悪口を言われるうち、内田は「こいつはただ者じゃねえな」とむしろ感心してしまったという(『アサヒ芸能』1993年11月4日号)。

その後、内田は自ら主演し、脚本も手がけた『十階のモスキート』(崔洋一監督、1983年)、そして『コミック雑誌なんかいらない!』と、あいついでたけしと共演する。内田の企画した最初の映画である『水のないプール』(若松孝二監督、1982年)も含め、いずれも実際に起こった事件をモチーフとしていた。なかでも『コミック雑誌なんかいらない!』は、先述の会長刺殺へといたる豊田商事事件をはじめ1985年に起こった事件や社会現象を、内田扮する芸能レポーターがほぼリアルタイムで追いかけるという異色の作品となった。

詐欺商法の問題化と唐突な結末

豊田商事は、永野一男が1978年に東京・銀座に本社を置いて設立した。もともとは金の先物取引を行なっていたが、1981年2月頃から、一人暮らしの老人などをターゲットに金の購入を勧め、現物ではなく証書を渡すという、いわゆる現物まがい商法で多額の現金を集めるようになる(最終的にその総額は約1117億円にのぼった)。同時期には大阪市内に大阪豊田商事(のち82年に豊田商事と商号変更)を設立し、全国営業の拠点とした。

この間、1982~83年頃より、豊田商事からの被害を訴える相談が消費者センターや弁護士会にあいつぎ、1985年になってやっと警察の捜査が本格化する。同年6月15日には、豊田商事が現金や小切手を台湾の海外事業所に不正送金した外為法違反容疑で、兵庫県警が本社を捜索、さらに17日には大阪市内にあった永野の自宅マンションの捜索が行なわれた。惨劇が起きたのはその翌日、6月18日の午後だった。

前日に警察から取り調べを受けた永野は、この日、マンションに報道陣がつめかけたため、ひとり部屋に閉じこもっていた。そこへ、鉄工所を経営するAと建設作業員のB(当時30歳)が現れる。二人は報道陣がカメラを向けるなか、玄関ドア横の窓の防犯用アルミ製格子を引きはがしたかと思うと、ガラスを破って室内に侵入、凶行におよんだ。その後、Aは「おれが犯人や。警察を呼べ」などと言いながら凶器である銃剣を見せ、さらに一度、部屋に戻ったのち、Bとともに出てきてその場を立ち去る。そしてマンションの外へ出たところで、殺人の現行犯で逮捕された。

その後の裁判でA、Bはそれぞれ10年と8年の懲役刑となっている。詐欺事件の当事者である永野が捜査途中で殺されてしまったがために、事件にはなおも不明な点が残された。管財人弁護士団が回収に奔走したものの、被害者に戻ったカネは、被害額の1割強にとどまった。

たけしの演技に内田裕也も怖気立つ

『コミック雑誌なんかいらない!』がクランクインしたのは1985年6月21日、永野一男の刺殺事件からわずか3日後だった。この日、内田らスタッフは、歌手・松田聖子と俳優・神田正輝の結婚式を撮影するためのロケハンを行なっている。

結婚式当日(6月24日)には、本物の報道陣で混雑するなか、内田演じる芸能レポーターのキナメリ(木滑)が式場である教会の正門に突進、そこでマネージャー役の俳優に突き飛ばされるシーンがゲリラ的に撮影された(事前に撮影の承諾をとったものの断られたという)。このとき、内田があらかじめ仕込んであった鼻血を流しながら転倒したので、結婚式を取材していたテレビ各局が本当の事件と勘違いして集まるというハプニングもあったらしい(『キネマ旬報』1985年11月上旬号)。

同様に、ロス疑惑の渦中の人物・三浦和義が成田空港に到着する場面でも、本物のレポーターたちのなかに内田がまぎれこんで撮影が行なわれた。三浦はもちろん本人で、このあと彼の経営する店へキナメリが突撃取材するシーンも出てくる。その非礼を滔々と批判しながら取材を拒否する三浦のさまは、演技とは思えない役者ぶりだった。

このほか、おニャン子クラブや、フジテレビで『オレたちひょうきん族』や『笑っていいとも!』などを手がけたプロデューサーの横澤彪、同局の看板アナウンサーだった逸見政孝などが本人の役で続々と登場する。一方で、松田聖子の役はそっくりさんだし、ホストクラブの取材シーンでは、郷ひろみと片岡鶴太郎がホスト役で出演している。まさに虚実入り混じった構成というわけだ。

神戸の暴力団抗争、日航ジャンボ機墜落など現実の事件が数多くとりあげられているこの映画で、物語の軸となったのが豊田商事事件だった。そこでは「テレホンレディー」と呼ばれた女性社員が言葉巧みに老人をだます手口などが、事実に沿ってくわしく描かれ、その末に起こった会長刺殺事件も、一部始終がかなり忠実に再現されている。ただし一点だけ、現実と大きく違う点があった。

【PHOTO】gettyimages

主犯格の役にはたけしがすぐに決まったのに対して、共犯者であるBの演じ手が決まるまでには紆余曲折があった。当初は、監督の滝田洋二郎がピンク映画の男優をキャスティングしていたが、内田が見たところ、どうもたけしとしっくりいきそうに思えなかった。そこで内田は考えた末に、関西でパブを経営していたスティービー原田というこわもての男に変更する。彼の持っている恐怖性が、たけしにぴったりと思われたのだ。スティービーに演技経験はなく、滝田も半信半疑であったが、内田は説得して彼の起用を認めさせた。

はたしてたけしとスティービーは息をぴったりあわせて凶行を演じてみせた。会長の部屋の前にスティービーとともに現れたたけしは、玄関のドアをパイプ椅子で何度も打ちつける。ここからしてすでに鬼気迫るものがあった。

やがて二人は部屋に侵入すると、電話に駆け寄る会長を発見し、たけしの「いてまえ」の合図でスティービーが銃剣を振り下ろす。このあと、めった刺しにされ血まみれになった会長の頭をたけしが左腕で抱えながら再び報道陣の前に現れた。スティービーはさらに左脇腹へとどめとばかり銃剣を突き刺す。たけしは部屋から出ると、悪びれもせず、カメラの前で銃剣を掲げた。冒頭にあげたシーンだ。そんなたけしの演技を見ていて、内田は怖気立ったという(『アサヒ芸能』1993年11月4日号)。

犯人を止められなかった報道陣への内田の問い

さて、先に映画と現実の事件には一点だけ大きな違いがあると書いた。それは、内田扮するキナメリが会長と犯人のいる部屋へと飛びこんでいったことだ。

事件は約30人の報道関係者が集まるなかで起こった。そのため、なぜ犯人を止めなかったのかと批判の声もあがった。事件当日には、夕方の民放各局のニュース番組に続き、NHKの『ニュースセンター9時』でも事件の一部始終を撮った映像が流された。これに対して抗議電話が殺到する。なかには残虐な映像を流したことについての批判もあったが、8割は現場にいた報道陣への非難だったという(『朝日新聞』1986年1月4日付)。

映画のなかでキナメリが取材する立場をかなぐり捨てて、部屋に飛びこんでいくという演出も、そうした報道陣の姿勢への疑念から生まれた。内田は後年、次のように語っている。

《あの事件は外国でも叩かれたんだよ。日本のジャーナリストは目の前で殺人が起こっても誰もなにもしない。あとは言論の自由を追求したかったんだよね。ああいった現場に直面したときにジャーナリズムの連中は助けに行くべきなのか、なにもしないで報道に徹するべきなのか。いまだに俺わからないけどさぁ。だけど、人間としてはやっぱ窓ガラスを壊して中に入んないとさ》(『キネマ旬報』2016年5月下旬号)

キナメリは室内に飛びこんで、自らも犯人に刺されるのだが、再び外に出てくる。カメラを向けられた彼はコメントを求められ、一言、「I can't speak fucking Japanese(小汚い日本語なんてしゃべれるか)」とだけ口にし、血まみれの手でカメラのレンズをふさいだ。

報道陣が犯行を“傍観”していたことについては、事件直後よりジャーナリズムの世界でも議論が起こった。《もし、報道陣の一人が制止行動に出て刺殺されていたとしたら、世間の反応は違ったものになっていたであろう》とは、ノンフィクション作家の本田靖春の言である。本田はこのとき、《ジャーナリストの仕事は、事象を冷静、正確にとらえて、それを情報として伝達することである》とし、その《本来の使命を果たすために、第三者の立場に徹すべきである》と主張した(『朝日ジャーナル』1985年7月5日号)。

事件発生時に現場にいた報道関係者のなかにも葛藤があった。毎日放送のある記者は、《永野会長宅にやって来た男たちをいぶかしくは思ったが、すぐに引きあげると思った。他の記者も同じだったでしょう》と証言している(『朝日新聞』2010年1月23日付)。この記者は、男たちが現れた際、主犯格の中年男にインタビューし、「被害者を6人ばかり面倒を見てきた。(永野会長を)殺すように頼まれた」と話すのをカメラに収めていた。

だが、その不真面目な態度、独善的な言い分はとても本気には思えなかったという。ゆえにこの段階では、集まっていた記者は誰も警察に通報しなかった(西村秀樹「豊田商事永野会長刺殺事件」、関西マスコミ倫理懇談会50年誌企画委員会編『阪神大震災・グリコ森永vsジャーナリスト』日本評論社、2009年)。

ところが男たちは永野の部屋の前まで来て、玄関横の窓の防犯格子をあっけなく外したかと思うと、ガラスを割って室内に侵入してしまう。これには先の記者も、まったく虚を衝かれたという。凶器となった銃剣は、主犯の男の鞄に入っていたが、報道陣のなかでそれに気づいた者はいなかった。一方で、彼らが侵入するとすぐに警察に通報したという者は、くだんの記者を含め複数人いた。

テレビ各局では永野が刺されたあと、あいついで特別報道番組が始まる。そこでは犯行前の男たちへのインタビューも流されたが、殺されたという結果を知ったうえでそれを見た視聴者はもどかしく思ったことだろう。新聞には、血まみれになった永野を抱きかかえる主犯者など犯行の様子をとらえた写真が掲載された。これが読者や視聴者に、報道関係者は殺害の一部始終をずっと見ていたとの印象を与えたことは間違いない。しかし実際には、これらの写真はマンションの廊下からカメラだけを室内に突っ込んだところ、たまたま撮れていたにすぎない(西村、前掲)。

話をさらにややこしくしたのは、主犯格の男が逮捕・起訴後に「自分は殺すつもりはなかった。報道関係者から『もっと。もっと』と煽られた」と主張、報道関係者を殺人幇助の容疑で告発したことだ。結局、起訴にはいたらなかったものの、その後刑期を終えた主犯の男から脅迫まがいの手紙を送りつけられるなど、現場にいあわせた記者たちは事件をめぐってのちのちまで悩まされることになった。