日本史 キリスト教
鎖国下の日本で、期せずして海外を見てしまった漂流者たちの証言
江戸庶民にとっての異国

クリスマスと日本人の不思議な関係を解き明かす連載第7回。鎖国していた江戸時代、期せずして海外の文化に直接ふれることになったのは「漂流者」たちだった。今に伝わる彼らの証言から、当時の庶民が異国に対してどんな感覚をもっていたかを探る。(→第1回はこちら

海外に直接ふれた「漂流者」

隠れキリシタンとは別に、江戸政権期のクリスマスについて、私が興味を抱くのは「漂流者たちの見聞」である。

海外の国との国交をほぼ断絶している時期、長崎の交渉役人以外で海外の文化に直接ふれた者たちとしては、この〝漂流者〟がいる。

多くは回船業者である。

仙台から江戸をめざしていた回船や、紀州和歌山から江戸をめざしていた回船などが暴風によって沖に流され、黒潮海流に乗り遠くアリューシャン列島などに漂着し、ロシア人ないしはアメリカ人に救出され、やがて日本に帰着した。

江戸期、この漂流者たちはかなりの数にのぼった。

救出され、日本に帰国できた者たちだけでも、何十人にもおよぶ。ロシアなどの漂流地でそのまま暮らし続けた者もいた。漂流し、その後助けられることなく消えていった者たちの数は、膨大なものになるだろう。

和船は、一本マスト(帆柱)で帆はひとつだけ、それによって日本全国の海岸沿いに回航した。外洋を航海する仕様にはなっていない。一本マストで甲板を持たない船は、暴雨風に弱かった。

これを鎖国令(および大船建造禁止令)をくだした当時の政府の責任である、という説がかつて有力であったが、いまは否定されている。何でもかんでも、鎖国が悪かったと考えていた時期があったのだ。海外諸国に対するコンプレックスが異常に強かったのだろう。

一本マストや甲板がないのは、回船業者が儲けを大きくするために自分たちで選んだ船の形であった。それが漂流を招きかねないことを承知で、かれらは効率よく商品を運ぶために、その船に乗り込んだのである。

強い意志を持った勇猛な商人たちだった。そうでなければ、想像を絶する苦難を乗り越えて、何人もが、海外から日本へと帰着できるものではない。漂流記を読むと、彼らの危難に対する覚悟と強い意志を感じる。

当代一流の学者による聞き取り

アメリカの捕鯨船や、ロシアの商船が太平洋沿岸に多く出没する時代となり、流された日本人船乗りたちがかれらと邂逅する機会も多くなった。

〔PHOTO〕iStock

彼らは、自国との交渉を持たぬ日本という国と何らかの関係をつなごうとして漂流民を送致してきた。何人かは無事に日本に帰り着き、キリシタンになっていないかどうかの調べを受け、そのあと海外で見聞したことを聞き取り調査された。

また漂流者たちも自分たちの体験を記録していることが多かった。聞き取りは、当代一流の学者によっておこなわれ、彼らの手によってその記録が残されている。あまり知られていなかった海外事情を知る手立てとなり、国内にかなり流通したものもある。

それらには海外の民の諸生活を記したものが多い。

いま読めるおもだった漂流記を挙げてみる。

(1)「北槎聞略」1783年から1792年、大黒屋光太夫らのロシアへの漂流
(2)「環海異聞」1793年から1804年、津太夫らロシアへの漂流、大西洋から南米廻りで帰国。
(3)「船長日記」1813年から1816年、小栗重吉ら環太平洋(アラスカからロシア)漂流
(4)「蕃談」1838年から1843年、次郎吉らハワイ、ロシア、アラスカへの漂流
(5)「漂巽紀略」1841年から1851年、万次郎らハワイへの漂流(万次郎のみアメリカ本国上陸)。

北太平洋というエリアで見ると、わが日本はアメリカとロシアの隣国なのだということがあらためてよくわかる。

漂流して生き延び、帰国がかなった人たちが乗っていた船は、だいたい巨大である。五百石から千石の船、舳先から艫まで長さ30メートルほどあり、乗組員も十数人いた。

暴風雨に遭うと、船の転覆を防ぐために、一本マストが切り倒されるのが通例であった。また浅瀬を航行しやすいように作られた舵も壊れやすく、帆と舵を失った船はまったくコントロール不能となり、ただ漂い続けるしかなかった。

ただ大量の米を積み込んでいることが多く、その場合、漂流しても食料には困らなかった。半年以上の漂流というのもいくつかあるのだが、食料が確保されていないとそれもむずかしい。

問題は水である。ほとんどの場合、雨水を確保して飲むしかなかった。雨が多く降るエリアを航行し、さほど困らなかった漂流者もいれば、雨にあわずにかなり水に困った漂流もあった。