メディア・マスコミ ジャーナリズム
朝日新聞が「甲子園」を1面ニュースにするのはジャーナリズムか?
大手紙にはびこる報道を装った広告

「自社モノ」は露骨な企業PR

権力側が報じてほしくないと思うことを報じるのがジャーナリズム、それ以外はすべてPR(広報)――。英国の作家ジョージ・オーウェルが残した名言だ。

前回の当コラム(http://gendai.ismedia.jp/articles/-/49623)で書いたように、「権力側がメディア側に報じてもらいたいニュース」が発表報道であるとすれば、日本の主要紙では朝刊1面の大半が実質的に権力側のPRで埋められていることになる。

それ以上に露骨なPRもある。いわゆる「自社モノ」だ。

自社モノとは、自社と特別な利害関係を持つニュースのことである。例えば、朝日なら高校野球の甲子園大会、読売ならプロ野球の読売巨人軍などが自社モノに相当する。朝日は甲子園大会の共同主催者であり、読売は巨人軍のオーナーであるためだ。

日本では自社モノが幅を利かせた報道が当たり前になっていることから、「スポンサーなのだから大きく報じるのは当たり前」と思われがちだ。しかしこれは本来のあるべき姿ではない。新聞紙面はあくまで報道の場であってPRの場ではない。

新聞社は読者にとって大きなニュース価値があると判断すれば1面で大きく報じるし、それほどのニュース価値がないと判断するならば中面で小さく報じる――これがジャーナリズムである。自社の利益ではなく読者の利益を第一に考えれば必然的にこのような形になる。

ところが、ニュース価値があるかどうかに関係なく、自社モノが新聞1面に紛れ込むのが常態化している。全国紙(読売、朝日、毎日、日本経済、産経)と東京新聞の6紙を選び、6~8月の朝刊1面(東京本社版)を点検したところ、新聞社が主催したり後援したりしている記事は毎日で16本、東京で8本、朝日で7本に達した。

自社モノ17本と一番多かった毎日新聞を具体的に見てみると、日本野球連盟と共催する都市対抗野球大会が10本、後援する高校野球甲子園大会が4本、主催する全国農業コンクールが1本、朝日と共催する将棋名人戦と単独主催する囲碁本因坊戦がそれぞれ1本だった。

「報道を装った広告」

もちろん、自社モノであってもニュース価値が大きければ1面で報じてもいい。都市対抗野球が読者にとって重要なニュースであるならば、連日のように1面扱いになっても構わないということだ。

だが、毎日とほかの5紙との間では紙面上の扱いの差が大き過ぎる。6~8月の3ヵ月を見ると、5紙は朝刊1面には都市対抗野球絡みのニュースを1本も載せていない。毎日は10回にわたって1面扱いにした一方で、ほかの5紙は1面からは一切排除していたわけだ。

毎日は「読者にとって重要なニュースだから」ではなく「わが社が主催しているから」という理由で1面扱いにしていたのではないか。だとすれば、読者の利益よりも自社の利益を優先しており、「報道を装った広告」とのそしりを免れない。

同じ期間に読売の自社モノは1本にとどまった。同紙が特別協力する正倉院展のニュースだ。実は正倉院展のニュースはもう1本あったが、こちらは社告として扱われていた。同紙が主催する世界鉄道博や共催する全国高校総体も社告扱いだった。

だからといって読売が高い報道倫理を持っているとは言い切れない。自社モノには夏の甲子園のように季節要因があるし、主催や共催、後援形式のニュースでない場合もある。例えば、すでに触れたように読売にとって読売巨人軍は自社モノだ。

巨人軍が日本シリーズで北海道日本ハムファイターズを破って日本一になった2012年9~11月の3ヵ月を見てみよう。朝刊1面(東京本社版)に載った巨人軍絡みのニュースをひろうと、読売では合計10本に上ったのに対し、ほかの5紙ではゼロ本だった。

読売が紙面を使って巨人軍に肩入れしていても、日本では倫理上問題視されることはあまりない。マスコミ業界全体で見ればお互い様だからだ。

メディアリタラシーの問題もある。読者が自社モノ優先の報道に慣らされ、強い違和感を抱かなくなっているともみられる。「巨人軍のニュースを読みたいから読売を購読している」という読者が多いとすれば、読売は巨人軍のPR紙と見なされているといえよう。

問題は経営と編集の一体化

ここから垣間見える構造問題は、経営と編集の一体化である。「サラリーマン記者」という言葉が象徴するように、新聞記者の多くは「将来は経営幹部」を夢見るサラリーマンであり、会社の利益のために行動しようとする。

言うまでもなく、ジャーナリストであるならば読者の利益を何よりも優先しなければならない。報道倫理を棚に上げて会社の利益を優先していたら、ジャーナリスト失格である。だからこそ報道機関にとって経営と編集の分離は大事なのだ。

サラリーマン記者の立場でいったい何ができるだろうか。夏の甲子園報道に力を入れる朝日。同紙記者が「紙面を美談であふれ返させるのはおかしい。炎天下で体を壊す球児の窮状を描く連載をやる」と宣言したら、経営側から大目玉を食らうのではないか。

商業化された甲子園で球児たちは弱者の立場にある。大人たちに対して常に感動を与えるよう求められている。無理な連投を買って出て、肩や肘を壊してしまう投手もいる。それも美談にして伝えているとすれば、もはや報道ではなくPRである。

米国の新聞社では経営と編集は人事面で分離されている。例外もあるとはいえ、記者は「ジャーナリストをやめる」と宣言しない限り編集部門以外では働かない。社内競争を勝ち抜いた記者が経営幹部に抜擢される日本とは違う。

だからなのか、米国ではあからさまに自社モノを優先する慣行は見られない。大したニュース価値がない自社モノを無理に1面ニュースにすれば、報道倫理にもとるとして同業他社から糾弾される。読者からの信頼も失いかねない。そもそも名門新聞社が特定のスポーツ大会を主催したり、特定のスポーツチームを所有したりすることはない。

日本と同様に米国でも報道機関がシンポジウムやパネルディスカッションなどイベントを主催することはある。広告収入の大幅減に見舞われている新聞社など伝統的メディアのほか、新興のネットメディアもイベント収入拡大に乗り出している。

しかし、これについては米マスコミ業界内でも賛否両論がある。有力紙ワシントン・ポストは2014年3月に「ますますイベント収入に頼る報道機関」と題した分析記事を載せ、「編集と広告の両部門を分離してきた壁が崩れかねない」との見方を紹介している。

留意点が一つある。イベント収入を増やしているとはいっても、自社イベントを1面ニュースとして大きく報じているわけではないのだ。自社主催の国際会議やシンポジウムを機械的に1面ニュースとして扱っている日本の主要紙とは違う。