日本史 キリスト教
江戸時代、「隠れキリシタン」はぜんぜん隠れていなかった!?
塗り替えられる禁教イメージ

クリスマスと日本人の不思議な関係を解き明かす連載第6回。今回は、鎖国していた江戸時代が舞台。「隠れキリシタン」と聞いて我々がイメージする姿と、実際はずいぶんちがったようです。(→第1回はこちら

鎖国の目的

17世紀、江戸にあった中央政府は〝鎖国令〟という名の触れは出していない。

かれらがおこなったのはキリスト教徒を日本国から締め出すことであった。

徳川家康は1613年の暮れに「伴天連追放」を全国に公布し、その一掃をはかった。日本古来の秩序を乱すものとして、その存在を許さなかった。

ただその信者数はかなりの数におよび、しかも全国に広がっていた。禁教令を出したくらいでは、その影響力を途絶させることはできない。そもそも、キリスト教国との貿易は継続したため、商人に身をやつした宣教師が国内に潜入するのを止めることはできなかった。

そこで政府は徹底をはかることになる。

まず御用商人が扱っていた外国との貿易を、中央政府の管轄においた。

カトリック教国であるポルトガル人は、商人とキリスト教布教者の区別がつきにくく、彼らを出入りさせているかぎりキリスト教追放は成り立たぬと判断し、ポルトガルとの国交を断絶、ポルトガル人を追放し、今後の入国を禁じた。

キリスト教国ながらプロテスタントのオランダ国は、商人と布教者の区別がついているように見えたので、長崎のみに窓口を限定し、その交易を続けることとした。もうひとつ貿易を続ける中国船の出入りも長崎に限定した。

また、日本人の海外渡航と、在外日本人の帰国を禁じた。これを許しているかぎり、やはりキリスト教との縁が切れないからだ。

「ポルトガルとの国交断絶」「オランダ・中国との交渉を長崎に限定する」「日本人の海外渡航と海外からの帰国の禁止」この三つの沙汰をもって鎖国令と呼ばれている。

このままの状態では、日本はやがてキリスト教によって国の秩序が保てなくなる、との判断によって、こういう処置をしたまでである。国を鎖ざしたのは結果であって「これから国を鎖ざすぞ」と宣言したわけではない。

事実、200年を越えて、日本国は平穏な時代を過ごした。

鎖国状態は、別のいいかたをすれば、「外交に関して一切すべてを中央政府が引き受け、処理し、その内容も公開しないこと」である。

海外の情報を細かに知ることはできないが、またそのぶん、どうしようもない外交的諸問題について一般人が思い煩うことがない。これはふつうの日本人にとって、かなりの安寧をもたらす状況だと、わたしはおもう。

17世紀の半ばまでに、国内のキリスト教徒を国外追放か処刑をした中央政府は、キリスト教徒が一人たりともいない国を作った。少なくとも、私はキリスト教徒であると表明する者は一人としていなかった。

棄教しない者は国外追放

徳川中央政府がキリシタン追放を本格化しはじめたのは1614年である。

〔PHOTO〕iStock

まず、棄教しない者たちを国外に追放した。

このとき、切支丹大名の高山右近は加賀前田家でほぼ隠居状態にあったのだが、追放令に従い、長崎からマニラに向かうことになった。

長崎で船便を待つあいだに復活祭の時期となり、集められた数千の信者たちは、処刑前のキリストを真似て十字架を背負い、鞭打たれ、何千人もの行進をつづけた。

禁教下における示威運動ではあるが、おそらく追放される者たちだからと看過されたのであろう。関係ない者にとってはただの騒擾であり、よけいにキリスト教に対する反発心を生んだのではないか、とおもわれる。

これが日本でおおっぴらにおこなわれたキリシタン祭礼の最後だろう。それ以降、今日にいたるまで信者によるここまでの熱狂的な祭礼はおこなわれてない。

隠れキリシタンは隠れてなかった?

日本国内にはキリシタンは存在しなくなり、当然、クリスマスも存在しなくなる。目立つかたちで降誕祭が祝われることはなくなった。

もっとも、隠れキリシタンという人たちは存在していた。ただ、隠れているかぎりは「キリスト教の祭礼」をおこなえない。

潜伏キリシタンという用語もある。ただ、どちらの用語が実体をうまく反映できてないようにおもう。

彼らは社会から「隠れ」たり「潜伏」していたわけではない。グアム島やルバング島の密林に身を隠して味方の勝利を待っていたわけではなく、捜査の網をくぐり人目につかない場所に潜伏していたわけでもない。

〝隠れキリシタン〟と呼ばれる人たちは、きちんとそれぞれのエリアの領民として、ふつうに暮らしていた。また宗門改めがあるので、かならずどこかの寺の信徒として登録されている。

この時代の村は共同体の性格が強く、構成員は(つまり村人は)かならず村落での共同作業を分担した。みんなで分担しないと生活が成り立たないのだ。村の鎮守のお祭りでも役目を果たし、葬式や婚礼を手伝い、年貢を負担し、ほかの共同構成員と同じ仕事をした。仏教徒であり、神社の氏子であり、そのうえで、みなにわからないようにキリスト教的な信心を持っていたばかりである。

村落共同体から、村人が一挙に離脱すると村そのものが立ち行かなくなるので、信者と非信者が混在しているエリアでも(ほとんどの隠れキリシタン村はそうだったらしい、一村総員がキリシタンという村はなかった)、あの家はキリシタンだという告発がなされることは少なかった。

非信者は「あそこは家の事情でそういうことを守っているらしい」と黙って見過ごすのが隠れキリシタンに対する一般の扱いであった。