週刊現代
岸信介、A級戦犯「不起訴」の謎を解き明かす
運命を決めたGHQへの「証言」

文・魚住昭(ジャーナリスト)

拘束3年余の後、釈放された岸

炎天下にJR池袋駅前の雑踏を抜け、東へ向かった。目印は、東方の空にそびえる超高層のサンシャイン60である。

戦争中、この辺りは空襲が激しかった。そのため戦後しばらくは、曲がりくねった小道の両側のあちこちに大きな穴があいていたそうだ。防空壕の跡があって、みすぼらしい小屋がいくつも並んでいたという。

そんな光景を想像しながら歩くつもりだったが、暑さで立ちくらみした。途中何度も立ち止まり、20分ほどでやっとサンシャイン60に着き、そのわきの東池袋中央公園に入った。

そこは別天地だった。ラクウショウというスギ科の高木が何十本も生い茂り、深い木陰を作っている。涼しくて、まるで渓谷の底に降り立ったような気分である。頭上から蝉時雨がひっきりなしにそそぐ。猫が敷石の上で昼寝している。ヒンヤリして気持ちいいのだろう。

私はベンチに腰をかけ、汗がひくのを待ちながら70年の時の流れを思った。この公園とサンシャインシティの一帯には、かつて巣鴨プリズンがあった。戦犯の収容施設である。

公園の北西角にあたる所には処刑場があった。そこで処刑された戦犯は約60人。うち東条英機らA級戦犯7人の死刑執行は、1948(昭和23)年12月23日未明にあった。

巣鴨プリズンの処刑所に建立されている石碑 〔PHOTO〕google map

翌日、A級戦犯容疑者として巣鴨プリズンに3年余り拘束されていた岸信介は不起訴となって釈放され、米軍の車で弟の佐藤栄作(=当時の吉田内閣の官房長官)がいる永田町の官房長官官邸に送り届けられた。

官邸の玄関に立った岸は丸坊主だった。プリズンで支給されたぼろ服にドタ靴をはき、ちょびひげを生やしていた。そんなみすぼらしいなりのまま「弟はいるか」と言って、応対に出たお手伝いの女性を困らせた。

女性は「ちょっとお待ちください」と引っ込み、護衛を連れて戻ってきた。不審者と思ったらしい。たまたま護衛は東条内閣時代の顔見知りで「岸先生じゃありませんか」と言った。

弟はしばらくして公務から戻ってきた。ちょうど昼食時だったので「何か好きなものがあれば食べさせる」と言った。

岸は巣鴨で3~4回、マグロの刺身を食べたことがある。二切れしかなかったが、実にうまかったので、弟にこう告げた。以下は『岸信介の回想』(文藝春秋)からの引用である。

〈他日出獄した折にはマグロの刺身を腹一杯食べてみたいと思っていた、というと、大きな皿に盛ったマグロの刺身をとってくれた。ところが食べてみると、これがいっこうにうまくないんだよ(笑)。それでね、落語にあるでしょう、目黒のサンマ。こっちは巣鴨のマグロなんだ、マグロは巣鴨に限る(笑)〉

さて余談はこのくらいにして、岸の人生最大の分岐点となった出来事について考えてみよう。GHQは、なぜ岸をA級戦犯として起訴しなかったのか。

ハッとさせられた岸の証言

A級戦犯として起訴された者は28人。中には元蔵相の賀屋興宣や元外相の東郷茂徳ら、岸ほど戦争責任が重いとは思われぬ文官がいた。賀屋が受けた判決は終身刑。東郷は禁固20年。被告中、最も軽かった元外相の重光葵は禁固7年。岸は起訴されなかったからこそ、戦後政界に早々と復帰できたのである。

不起訴の謎を今から探るのは容易ではない。といってまったく手掛かりがないわけではない。国立国会図書館の憲政資料室にある『国際検察局(IPS)尋問調書』(粟屋憲太郎ほか編・日本図書センター刊)がそれだ。

全52巻の第14巻にケースナンバー77の通し番号をふられた岸信介の一件書類約70枚が英文で収められている。

ワシントンによる戦犯(1945年)左上が岸信介〔PHOTO〕gettyimages

1枚目はごく簡単なものだ。年齢(49歳)。住所。主な履歴。家族構成。総司令官マッカーサーの命令で戦犯容疑者に指名されたこと。そして1945年9月17日、収監されたことなどが記されている。

1945年末に作られたとみられる2~5枚目になると、それがかなり詳しくなる。日本政府の公文書や、日本と連合国の戦中の新聞報道・出版物・連合国が傍受したラジオ放送、そしてGHQに寄せられた投書などに基づく情報が列挙される。

ヤマダサダオ名のマッカーサーあて投書にはこうあった。

「岸は真珠湾攻撃を決めた東条内閣の閣僚だ。彼は巨額の賄賂を受け取ったという。岸の財産は1億円を超えるといわれる。東条が過去にやったように、岸は政府による財産没収を免れるため、家族や親類に財産を分配したと信じられている」

別の匿名の投書は言う。「岸は日産財閥の総帥―久原・鮎川の一派だ」「岸は満州ギャングであり、主戦論者だった」。

翌'46年1月19日付文書になると、岸が先の大戦で果たした役割についての追及が厳しくなる。GHQの捜査官は「岸は、日本のドラスティックな経済構造の変革(つまり統制・配給経済の強化)を進める新官僚のリーダーだった」と指摘した。

そして捜査官はこう結論づける。「岸はプリズンでの拘束をつづけられるべきだ。彼は戦前の長年月、政府で活動したし、真珠湾攻撃の時も東条内閣の閣僚の席を占めていたのだから」。

岸文書の8~15枚目は1946年3月7日付の第1回尋問調書だ。ここで岸はさまざまなことを語っているが、私がハッとさせられたのは、元内大臣木戸幸一(維新の元勲・木戸孝允の孫)に関するくだりである。

岸は言う。「木戸は私の盟友だ。彼が商工省にいたときから知っている。私は木戸の秘書係をつとめていた。だから木戸は私をよく知っている。どんな問題であれ私の心中を煩わしているものを熟知している」

ふだんクールな岸にしては異様なほど親密さを強調している。理由は想像がつく。東条を首相に推したのは木戸で、岸を商工相に起用したのは東条だった。そして東条vs.木戸・岸の対立が東条内閣を倒した。この3人の複雑な関係をGHQにどう理解させるか。それが自分と木戸の運命を決めるカギになると知っていたからである。

(来週公開分に続く)

*参考:『平和の発見』(花山信勝著・方丈堂出版刊)

『週刊現代』2016年9月17日号より