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「酒」から読み解く、豊臣秀吉の意外な素顔
日本史を酒の肴にするのもオツなもの

まるで大学生への注意書き

放送中の大河ドラマ『真田丸』で天下人の凋落ぶりがいやというほど晒された豊臣秀吉。その死は1598年(慶長3年)のことだった。

死の5ヵ月前の春、62歳の秀吉は醍醐寺三宝院で贅を尽くした花見を開いている。宴では1300人もの女房女中(もちろん美女)をはべらせ、桜と酒と女を堪能した。秀吉自ら下見のために醍醐寺へしょっちゅう通っていたというから、相当楽しみだったのだろう。

そんな秀吉が愛した酒に「天野酒」がある。今の堺市の南側に位置する河内長野の天野山金剛寺で造られていた高級酒だ。お坊さんが酒?と思うかもしれないが、当時の仏僧らに酒は「般若湯」という隠語で親しまれ、ごく当たり前に酒造りが行われていた。現在でも、当時貯蔵に使われた備前焼の大甕が残されている。

天野酒は超濃厚甘口。「天野比類無シ」「美酒言語ニ絶ス」などと絶賛され、秀吉も度々使者を派遣して買い求めていた。「良酒造りに専念するように」と朱印状も出されたほどで、まさにお墨付きだ。

それほど酒好きだった秀吉だが、酒に強かったわけではない。

大坂城中の掟書といえる「壁書」には「一、酒者随根器、但大酒御制禁之事」とある。簡単に言うと「飲める者は飲め、飲めない者は無理して飲むな」。一気飲みや、ちゃんぽんなど、無茶な飲み方をする大学生への注意書きのようだ。

実際、秀吉の周囲には大酒飲みが多かった。

子飼いの猛将・福島正則は、大の酒好きなだけでなく、酒癖も最悪。酒席で家宝の槍をうっかり取られるなど、失敗談に事欠かない。気に入りのお伽衆・曽呂利新左衛門は真っ赤な顔をして秀吉の前に現れたものだから「飲んで来ただろう」と勘ぐられ、「焚き火にあたってきただけです」と言い訳したという逸話も残っている。

酒は量を飲みすぎるとロクなことがない。「呑ん兵衛」な部下たちに苦労したからこそ、そう秀吉は身をもって知っていたのだろう。(安)

『週刊現代』2016年9月17日号より