天才科学者をも苦しめる「ポスドク問題」のリアル
博士号をとっても40までは下働き
「クリスパー」開発者の一人、エマニュエル・シャルパンティエ氏〔PHOTO〕gettyimages

世紀の発明を成し遂げるまで

あらゆる生物の「ゲノム(DNAに書かれた全遺伝情報)」を自由自在に書き変える、驚異のゲノム編集技術「クリスパー(CRISPR)」。それは医学、製薬、農業、バイオなど、人類の存立に関わる様々な分野で、史上空前の産業革命を引き起こすと見られている。

この画期的技術の発明者として知られる3名の科学者の一人、フランス出身のエマニュエル・シャルパンティエ(Emmanuelle Charpentier)博士は、その功績が認められ、昨年、世界的に有名な独マックス・プランク感染生物学研究所の所長にまで上り詰めた。

が、現在の誉れ高いポジションを獲得するまでに、彼女は5つの国を跨いで9つの研究機関を渡り歩き、その間の大半において、いわゆる「ポスドク(postdoc:博士課程修了後に任期制の職についている研究者)」として、経済的には「その日暮らし」を強いられるほどの乏しい給与と不安定な雇用環境に甘んじてきた。その期間は実に25年にも及ぶ。

シャルパンティエ氏ほど才能に恵まれた科学者が、何故、それほど長期にわたって不遇の人生を歩まざるを得なかったのか?

背景には、年々、厳しさを増す基礎科学者の雇用環境がある。それは彼女が活躍する欧州のみならず、日本や米国などにも共通する世界的な傾向だ。

米国のポスドク事情

基礎科学はすぐにビジネスにはつながらないが、長い目で見れば(ゲノム編集のように)次世代の巨大産業を生み出すポテンシャルを秘めている。そのため、各分野の基礎科学者が安定した職に就けないことは、いずれ各国の産業/経済に深刻なダメージを与えると懸念されている。

以下は、この問題について書かれた米ニューヨーク・タイムズの記事である。

●“So Many Research Scientists, So Few Openings as Professors” The New York Times, JULY 14, 2016

この記事によれば、米国では博士課程修了者の数が年々増加しているのに、(彼らが目指している)いわゆる「tenure(終身在職権)」を有する、「教授」や「助教授(准教授)」などのポストは逆に減少している。中には、たとえばボストン大学医学部(Boston University School of Medicine)のように「tenure」のポストを用意しないところもあるという。

具体的な数字を示すと、たとえば比較的多くのポストが用意されていると言われる「生物医学(Biomedicine)」の分野でさえ、1993年~2013年の20年間で博士号(Ph.D)の取得者数が10万5000人から19万2000人へと83パーセントも増加したのに対して、tenureのポスト数はそれほど増えなかった。

結果、今では、終身在職権を得ることができるのは、博士号取得者の「6.3人に1人」。しかし、これはまだマシな方で、特に雇用環境が厳しい「環境工学(Environmental engineering)」の分野となると、その割合は「19人に1人」まで落ちるという。

終身在職権を得るのは40代

このように需給バランスが悪化すれば、仮に運良くtenureのポストを得ることが出来たとしても、それまでに要する期間は当然長くなる。

具体的に言うと、(助教授など)終身在職権を得る平均年齢は1980年には35歳であったが、今では42歳であるという。前述の「ポスドク」と呼ばれる不安定な契約雇用期間は優に10年を超えるケースが珍しくない。

ポスドク研究者は事実上、自分を雇ってくれた研究室(教授)の「下働き」のような仕事に甘んじる。中には研究室のオリエンテーションで、「君はこれから自分が独立するためではなく、教授が成功するのを助けるために働くんだ」と釘を刺されるポスドク研究者もいるという。

また、その給与を見ると、たとえば生物医学分野における初任給(年収)の平均額は、2016年で「4万4,000ドル(440万円前後)」だという。

〔PHOTO〕iStock

科学技術立国のツケ

翻って日本の状況をみてみると、米国を後追いするような形となっている。

1990年代以降の科学技術立国、その一環である大学院重点計画など政府の政策により、大学院の定員が増加して博士号も量産されるようになった。

が、一方でいわゆる少子化等の影響で「教授」や「助教授(准教授)」、「助手(助教)」など大学の教職ポストが増加することはなかった。これによって米国同様、深刻なポスドク問題が生じることとなった。

そうした中、官主導の政府プロジェクトによってポスドク研究者の雇用を創出する動きが目立っている。

たとえば最近のAI(人工知能)ブームに乗って文部科学省は国内最大級となるAI研究拠点を東京駅周辺に新設し、産学官によるAIの研究開発を促す。これに向けて、約150億円の予算を2017年度の概算要求に盛り込んだと見られる。

こうした新規プロジェクトでは具体的なAIの開発目標を掲げるのは勿論だが、事実上の雇用政策的な側面も有している。

一般に大学の教職ポストを増加させるために予算をつけるのは難しいが、逆にいわゆる「産業政策」のための予算は通りやすいと言われる。

たとえば「成長戦略の一環としてAIの研究開発を促す」という大義名分があれば、文科省や経産省などの官僚も予算を要求しやすい。仮に財務省が渋っても、官僚が与党政治家に頼めば、彼らが財務省に働きかけて予算をつけてくれることが多いと言われる。それが政治家個人や与党のイメージアップにつながり、選挙時の票に結び付くからであろう。

官主導プロジェクトは「雇用対策」

こうやって獲得した予算は、表向きは「欧米に伍して、日本独自のAIを開発する」といった高邁な目的に費やされるが、そんな難しい目標が必ずしも達成できるという保証はない。

実際のところ、そうした予算はいわゆる「研究開発の基盤整備」、事実上は「ポスドク研究者に向けた雇用対策」に使われると見られる。そうでもしないとポストやお金を工面できないのだ。これらは、いわゆる「任期付き」の不安定なポストだが、それでもまったく無いよりはマシということだろう。

こうした状況は本来あるべき姿からは程遠い。本来であれば、大学内の安定した教職ポストを増やすことの方が、一国の科学技術振興には余程寄与するはずだ。

が、そのための予算を増額することは、たとえば「年金」や「介護」あるいは「待機児童」など、より優先順位の高い政治課題と真正面からぶつかるので、なかなか通り難いのだ。

ポスドク問題は結局、私たちのような一般有権者が国の将来を見据え、その政策のどこに重点を置き、何を優先するかにかかっている。
 

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