週刊現代
外務省にも、こんなヤバイ上司がいた!~佐藤優が名著で現代を斬る
現外務事務次官も、その一人です

佐藤優の名著コロシアム、今回紹介する作品は、筒井康隆・著『文学部唯野教授』だ。エンターテインメント小説と学術エッセイが見事に結合した本作で、文学を堪能するとともに、「読書する」よさを改めて感じてもらいたい。

エンタメと学術エッセイの融合小説

本書が岩波書店から刊行されたのは1990年だ。当時と比較して、大学生は授業によく出席するようになったし、〈大学の講義は十二分遅れて始まり十二分早く終るのが常識とされている〉というのも完全に過去の話になった。

文科省の締め付けが厳しくなったので、大学教師は時間いっぱい講義をする。休講をするとかならず補講をするようになった。しかし、大学が社会から隔離された場所で独自のローカルルールで動いているという本質には変化がない。

本書は大学人の生態を多少デフォルメして面白おかしく描くとともに、主人公である早治大学文学部の唯野仁教授の口を通じて、鋭い文学論が展開されている。エンターテインメント小説と学術エッセイの結合に筒井康隆氏は見事に成功している。

ちなみに大学の特殊な文化は、筆者が勤務していた外務省もかなりの部分共有している。特に興味深いのが文学部長で国文学が専門の河北教授だ。

「えれえひとが学部長になったもんだ。あのひととにかく非常識なんだよね。原辰徳を原節子の息子だと思っているし、ポスト・モダンと言うと新築の郵便局と解釈する。その上頑迷でさあ。黄色いシールの話、聞いたかい」

「それ何」

「文学概論のテキスト学生に買わせるためにさあ、自分の書いたあの高価な本の表紙の隅を切りとり式のシールにして、それを答案用紙に貼らせるんだよ。貼ってない答案は採点を拒否するんだって。テキスト買わなかった学生が困ってさあ、もしや二枚貼ってある答案がないかってんで、提出されている他の答案めくったりしてる」

シールを貼らせるという形ではないが、毎年、教科書に少しだけ増補し、教科書のみ持ち込み可の試験で、必ず最新の増補からしか出題をしない教授が筆者の母校の同志社大学にもいた。

(河北教授は)頑迷固陋、その上尊大で幼児性が強く、しかも非常識ときてはどうやって学部長になれたのか誰もが不思議に思うところだが、その極端に走る性格ゆえに研究をまったく抛棄し、前学部長の下でなりふり構わず学内政治に走ったことが今日の地位の獲得につながったのであった。恫喝まがい、脅迫まがいもあって、そのため敵を数多く作ってしまい、彼を好いている者はもはやひとりもいないという状態であり、教員の半数以上は彼奴めを学部長室で刺し殺し、屍体に黄色い砂をまいてやりたいと思っている

外務省にもいる「サンカク人間」

「義理を欠き」「人情を欠き」「平気で恥をかく」ような「サンカク人間」は、大学だけでなく、霞が関(官界)にもときどきいる。その代表が現外務事務次官の杉山晋輔氏だ。

鈴木宗男氏が絶頂にいるときは恥も外聞もなく擦り寄った。宗男バッシングが始まると先頭に立って叩く側に回った。そして北方領土交渉に関連し、安倍晋三首相と宗男氏が頻繁に接触するようになると、杉山氏は人を介して「かつて宗男叩きに加わったのは当時の竹内行夫(外務事務)次官に言われて嫌々やっていたに過ぎず、本意ではなかった」というようなメッセージを伝えてくる。

こういう行為が顰蹙を買うことすら杉山氏には理解できていないようだ。こういう輩が外務省の事務方トップで北方領土交渉がうまく進むのか不安だ。

さて、唯野の指導教授の蟻巣川も河北といい勝負の「人材」だ。

助手時代、唯野はこの蟻巣川から理不尽なこき使われかたをした。今でこそ冗談を言いあったりもできるようになったが、唯野は昔のことを忘れず、それは今でも澱の如き恨みとなって残っている。

「おい。この資料のコピーをとれ。それからオリジナルを破棄しろ」

「はい」

「待て。それからコピーも破棄しろ」

「あのう、それだと何も残りませんが」

「なんだと」

「それだと何も残りませんが」

いきなり蟻巣川の平手打ちが唯野の顔にとぶ。

「同じことを二度言うな。しつこい奴だ」

暴君であり、そうしたことが日常であった

筆者も外務省に入ったばかりの頃、まったく同じ経験をしたことがある。筆者がぶつぶつ文句を言いながら破棄する秘密文書をシュレッダーにかけていると、「佐藤、この程度のことで腹を立てるんじゃない。こういう仕事をすれば根性がつく」と諭され、目が点になったことがある。

確かに、その後、上司の命令でやらされた偽造領収書の作成や闇ルーブル(ソ連通貨)の売買などとくらべれば、無意味なコピー取りやシュレッダーかけの方が、はるかにましな仕事だった。

文芸批評に関して興味深いのは、唯野の「面白さ」に関する認識だ。

面白さなんて、そもそも教えにくいものなんだけど、特に現代的な小説の面白さなんてものは、他人に教えられるようなもんじゃないの。言語活動から起る面白さは、話の流れからは起りません。現代的な小説を読むには、早読みしない、ゆっくり食べる、はしょらない、丹念に摘みとる、これが大切です。つまり昔のような、時間をもてあました貴族的な読者になるってことが必要なんだけど、今言ったようなしろうとはもちろんのこと、評論家にだって、今の日本にはそんな貴族的な読者はいません

「言語活動から起る面白さは、話の流れからは起りません」というのは、小説だけでなくノンフィクションや思想書・哲学書にも共通していると思う。テキストの細部をゆっくり楽しむことが読書の醍醐味だ。

『週刊現代』2016年9月17日号より