学校・教育
2020年の教育大改革が導く「明るくなさそうな未来」
理念の裏側にある「ホンネ」とは

2020年から大学入試制度が大きく変わる。今春すでにそれを先取りするような試験を導入した大学もあり、その影響は当然、高校以下の教育にも及ぶことになる。まさに教育の一大改革だが、さてその背後にある「理念」と「ホンネ」とは? 画一的な詰め込み教育からの離脱は、何をもたらすのか?

文/堀井憲一郎(コラムニスト)

教育「理念」の由来

もう少しすると、大学の入試制度が変わる。

小学、中学、高校の教育も変わる。2020年に劇的に変わる予定になっている。

今回の改革目標は「知識だけではなく自分で考えて表現する人間に育てる」というところにある。

教育改革はいつも高い理想が掲げられる。子供のことをおもって素晴らしい理念が示される。

その理念を決定するのは国家機関である。ただ、あくまで民意に沿って決定している。国民の誰も望まない理想が掲げられることはない。

〝おのれの一身を抛って国家に奉仕することのできる武士を育成したい〟という教育理念を、いま誰かが提唱しても、受け入れられることはない。そんな教育は親の世代も受けていないし、そもそもそういう理念を提唱し実践している日本人が、そのへんに見当たらない。モデルがないものは学べない。

国家が決めるにしても、国民の意思を反映している。

日本が明治以来、めざしているもの

もともと、わが日本が〝国の理念〟として掲げている言葉は、ない。

わたしは聞いたことがない。そもそも、あまりそういう言葉を発することが好きではないのだろう。国家として発していない。戦争時の大言壮語に懲りている、という面もあるのかもしれない。

目標はある。

明治以来、わが国が一貫してめざしているのは「世界から見られて恥ずかしくない力を持った国でありたい」ということである。世界を、つまり地球全体を〝大きな世間〟と見立てて、そこで恥ずかしくないレベルの国であろうとしている。

軍事力と植民地政策によって世界の大国になろうとして大きく失敗して以来、軍事力は前面に出さず、経済力で国家レベルを保とうとしている。経済で強い国家を維持したい、というのが、現況でのわが国是である。わたしにはそう見える。

教育の目的は、だから「職業人としてタフな人間に育てて欲しい」というところにある。

今回に始まったことではない。ずっと昔からそうやっている。

第二次大戦敗戦後は「与えられたタスクを、早く、間違いなくこなす人材」の育成に力を入れていた。教育もその方針で進められてきた。

おそらく敗戦で集団が弱っていたので、集団結束力を強めるためにも横並びで同じことをさせようとしたのだろう。それはとても有効で、個々人の能力は伸ばさなくとも、集団となるとめっぽう強い力を発揮できるように訓練され、戦後の大きな経済成長をもたらした。

1946年の授業風景〔PHOTO〕gettyimages

産業人として通用する子を育てて欲しい、というのが、産業界の要請であり、また現実的な教育方針となる。

もちろんそれは教育を受ける側にもメリットがあるからだ。その社会で将来、安定した生活を送るための教育を施されることに、反対する理由はない。

産業界からの新たな要請

今回の産業界からの要請は、わかりやすい。

「人工知能の発展が著しいので、それに対応できる人間を育てて欲しい」という喫緊の要請だ。コンピュータで代替できる人間をこれ以上増やしてもらっても困る、という指摘でもある。

いまや国民の多くは個人的な人工知能を所有し(パソコンやスマホ)、いろんな作業を人工知能に代替してもらい始めている。「与えられたタスクを素早く完璧にこなす」という仕事の多くは、人工知能がやっていく。そういう作業をする人間も必要ではあるが、すべての子供にそういう教育していては国が持たない。

「コンピュータにどういう指示を与えればいいのか」それを考えられる人間が欲しい。そういう人間を育成してくれ、という要請である。

「考え、表現する人間を育てる」というのは表の理想であり、それを現実世界ふうに言い換えれば「自分で判断して、コンピュータのプログラミングをやれる。そういうレベルの人間を多く育成してもらいたい」ということになる。

画一的ではない教育は何をもたらすか

これはかなり劇的な変革になりそうである。

画一的な詰め込み教育ではだめだということである。

もしそのとおりに施行されれば、かなり厳しい選択になりそうだ。

画一的ではない教育は、それぞれの飛び抜けた能力を伸ばすことにはすごく向いているが、何でもない普通の子(まん中周辺、特に少し下のレベルの子供)には手を差し伸べにくい。

工夫や創造など、10代のうちはぼんやりしていてできない子なんてたくさんいるとおもうんだけど(20代や30代になってから、急にいろんなことをやれるようになる人間というのはたしかにいるから)、そういう子たちには厳しい状況になる。

中くらいだからこそ、あまり目立たずにひっそりとやってきた子が、それではだめだと言われたところで、うまく転換できるわけではない。

ただ中央政府で理想的に考えられていることが、地方のすみずみまできちんと行き渡るかどうかは、教師の納得ぐあいによるだろう。それぞれの場所で、土俗的に変質していく可能性が高い。

考えてみると画一的な詰め込み教育には「弱者に対するやさしさ」がどこかに込められていて、おそらく、それは敗戦国民だからという忸怩たるおもいとつながっていたのだとおもう。

言葉にされていない土俗的な心情に触れずに、優良選別の教育システムにスライドしていくのなら、この改革はおそらく中途半端な達成になる。

落ちこぼれる子が増えるだろう

そもそも新システムへの移行で、もっとも困ってるのは生徒ではなく、教師である。

自分たちが教わってきたものとまったく違う教育メソッドを示され、これからはこれで行ってくれ、と言われたところで、すぐに対応できる優秀な教師などごく一部しかいない。

教師はみんなもっと土俗的な日本習慣のなかで生きている。みずからそういう教育を受けたことがない教師たちが、どういうモデルを示せばいいのか、ふつう、わからない。教師向けの丁寧なマニュアルが用意されずにスタートしそうな気配がある。現場は困るだろう。

ただ大学入試が選抜システムであるかぎりは、求められる優秀な生徒が選ばれ、優れた環境へ、よい大学へ進んでいく、そういう結果になるはずである。環境やシステムの変動に対応できてこその優等生だからだ。

あからさまに言ってしまえば、「真の教育へ」という理想主義的おためごかしを、どれだけ形骸化してマニュアル化して自分たちのものにするか、というところに力を発揮するのが受験生の真骨頂であり、受験産業の業務である。

その成果が現場の教師へフィードバックし、それによって教師の負担が減っていくとおもわれる。理念とまったく反することであるが、それでも教師の負担が軽減されるのならそのほうがいい。

こういう逆風はしきりに吹く。しかし国が覚悟を決めて教育方針を大きく転換するかぎりは、子供たちにその理念はゆっくりと浸透していくだろう。

詰め込み教育とは違う世界観を抱いた世代が育っていくはずである。落ちこぼれる子がより多くなりそうなところに心が痛むだけである。

(→今回の教育改革のもう一つの柱である「国際化(英語教育)」についてはこちら。「日本人の英語」はどれだけ教育を変えても、結局変わらない。それは日本史を振り返ればわかります)

堀井 憲一郎(ほりい けんいちろう)
1958年生まれ。京都市出身。コラムニスト。著書に『若者殺しの時代』『落語論』『落語の国からのぞいてみれば』『江戸の気分』『いつだって大変な時 代』(以上、講談社現代新書)、『かつて誰も調べなかった100の謎』(文藝春秋)、『東京ディズニーリゾート便利帖』(新潮社)、『ねじれの国、日本』 (新潮新書)、『いますぐ書け、の文章法』(ちくま新書)などがある。