週刊現代
東条英機のアヘン資金疑惑 〜GHQに「日本のユダ」が語ったこと
陸軍の巨額の機密費はどこから?

文/魚住昭(ジャーナリスト)

軍の病理を突いた「日本のユダ」

おさらいをさせてもらいたい。前回、細川護貞(もりさだ)の『細川日記』(中公文庫)をとりあげたのを覚えておいでだろうか。

戦時中、高松宮の情報収集係をつとめた細川は、この日記に東条英機のアヘン資金疑惑を書き留めている。それを細川に伝えたのは、帝国火災保険の支配人・川崎豊である。

川崎曰く。中華航空で〈現金を輸送せるを憲兵隊に挙げられたるも、直に重役以下釈放〉された。これはその金が〈東条のもの〉だったからで〈以前より里見某なるアヘン密売者が、東条に屡々(しばしば)金品を送りたるを知り居るも、恐らく是ならんと〉。

この情報はホントだろうか。

信憑性を判断する材料を探すうちに田中隆吉に突き当たった。田中は日米開戦翌年まで陸軍省の兵務局長、つまり憲兵隊の総元締めだった男である。

陸軍の謀略活動にも深くかかわり、「東洋のマタ・ハリ」といわれた川島芳子の情夫だったこともあるらしい。敗戦後は一転して陸軍の悪行を告発し、旧軍関係者らから「裏切り者」「日本のユダ」と罵られた。

が、軍の病理に関する彼の指摘は鋭い。たとえば、こんなくだりが彼の著作『日本軍閥暗闘史』(長崎出版刊)にある。

〈満洲事変の勃発とともに、それまで僅かに二百余万円に過ぎなかった陸軍の機密費は、一躍一千万円に増加した。支那事変の勃発は更にこれを数倍にした。太平洋戦争への突入の前後に(略)正確な金額は全く表へ現れぬようになった。しかし当時の陸軍の機密費が年額二億を超えていたことは確実であった〉

2億円は今の1000億~2000億円に相当する。田中はさらに〈政治家、思想団体などにバラ撒かれた〉機密費は、彼の知る範囲だけでも相当額に上り、近衛文麿や平沼騏一郎など歴代内閣の機密費の相当額を陸軍が負担していたとしてこう綴っている。

〈これらの内閣が陸軍の横車に対し、敢然と戦い得なかったのは私は全くこの機密費に原因していると信じている。それらの内閣は陸軍の支持を失えば直ちに倒壊した。(略)軍閥政治が実現した素因の一として、私はこの機密費の撒布が極めて大なる効果を挙げたことを否み得ない。東条内閣に到っては半ば公然とこの機密費をバラ撒いた〉

田中は敗戦翌年から三十余回にわたってGHQ国際検察局の尋問を受けている。その時、作られた膨大な調書を日本文に訳したのが『東京裁判資料 田中隆吉尋問調書』(粟屋憲太郎ほか編・大月書店刊)である。

それによると、宮中で天皇を補佐する内大臣の木戸幸一は政治活動に多額の金を使った。金の出所は日産コンツェルンの総帥・鮎川義介(木戸や岸と同じ長州出身)だった。

そして鮎川の〈事業提携者〉の岸は東条内閣の商工〈大臣在任中に、財閥との有効な取り決めによってかなりの額の金を儲けた〉。

田中によれば、木戸は内大臣の地位にあったため、1941~'45年の間、日本の政治を支配した。木戸は東条内閣の成立に直接に力を貸したが、'44年4月、木戸と東条の関係は悪化した。木戸が、東条首相では戦争に勝てないと思い、倒閣を策謀し始めたからである。

東条はそれを知ると、元首相ら有力者を入れて内閣を改造しようとしたが〈岸は、それらのいずれが彼の後任者となることも頑として承知しなかった〉ので、これが東条内閣倒壊の直接的原因になったという。

沈黙する「阿片王」

田中の見解は、木戸・岸・鮎川の長州連合の寝返りが東条内閣の致命傷になったことを示唆していて、とても興味深い。

田中の第3回尋問のメインテーマはアヘンである。彼は華北のアヘン売買を統括していた北京の興亜院華北連絡部(=占領地の行政機関)の長官心得・塩沢清宣中将についてこう語る。

〈彼は、東条大将の一番のお気に入りの子分でした。彼は、里見の大の親友でもありました。塩沢は、北京から東条へしばしば資金を送っていました。戦争中であったため、上海地域で使用された阿片は、その量のすべてが北支から供給され、そのようにして、当然、多額の金が塩沢の手元に蓄えられました〉

田中の言う北支に、アヘンの主産地である蒙疆地区(今の内モンゴル自治区)綏遠省が含まれると解すれば、彼の言に概ね間違いはない。興亜院華北連絡部がアヘンで巨利を得たことも事実と考えていいだろう。

田中がつづける。

〈塩沢のもとで、専田盛寿少将という私の友人が働いていました。彼は私に、塩沢は、しばしば飛行機を使って東条のもとに金を送った、と語り、そのことでひどく腹を立てていました。それが原因で専田は、興亜院の職を辞することを余儀なくされました。昨年九月に大阪で私が専田に会ったとき、彼は私に再び同じ話をして不満を表明しました〉

GHQ国際検察局は東条のアヘン資金疑惑に強い関心を持ったらしい。それから約1年後の'47年3月21日、里見を召喚して1時間余にわたって事実関係を問いただしている。

取調官は事前に里見が中華航空の顧問だったことや、東条の私設秘書と親密な関係にあったことを確認し、いわば外堀を埋めたうえでこう切り出した。

「さて、ズバッと行こう。私は何らかの情報をあなたがくれるものと期待しているのだが、上海発東京行きの中華航空機で多額の金が東条に送られたことを知っているだろう?」

里見の答えはそっけなかった。

「知りません」
「じゃ、中華航空による現金輸送が憲兵に摘発された件は?」
「まったく何も知りません」

国際検察局による東条のアヘン資金疑惑の捜査は、里見の沈黙の壁に突き当たり、思うように捗らなかった。

私もここらで方向転換して岸と東条の不可解な関係を探ることにした。満州国首脳だった岸を日本に呼び戻して商工次官にし、その後、商工相に据えたのは東条だった。

東条人脈の中心にいたはずの岸が、敗戦約1年前、突如東条に反旗を翻した真の理由は何だったのだろうか。

(つづく)

『週刊現代』2016年9月10日号より