愛人に女秘書…欲望がパンパンに膨らんだ男を桐野夏生が描いた理由
つまらぬ人間になるよりは

小さくせこい男の秘密

私の新刊『猿の見る夢』は、59歳の男、薄井正明が主人公である。59歳という年齢は、中年とは言えないが、老人でもない。充実と退嬰の端境期にあって、何とも中途半端な年頃である。そんな年齢の男には、誰にも言えない秘密がたくさんあるはずだ。

もちろん、主人公・薄井には、秘密の人間関係もすでにある。だが、この作品に描かれる薄井の本当の秘密とは、弱さも脆さも含めた、彼の愛すべき心の有様である。

出世のために仲間を裏切ったこともあるだろうし、誰かを陥れたこともあるに違いない。逆に、自分が誰かに嵌められて、未だに恨んでいるかもしれない。そんな誰にも言えない狡さやさもしさ、酷薄さ。決して人には言えないことどもが、とにかくたくさん心の中に積もっている。

だから、彼は妻には決して心を打ち明けないし、愛人にも、親しい友人にも言わない。まして、子供に喋るなどもってのほかだ。彼の勝手な欲望の塊が、彼の秘密だからだ。

ちなみに、男は秘密を溜め、女は秘密を持たないけれども、つまらぬ悩みを溜める傾向にある。女は色気を失うとともに率直になり、さばけてゆくからである。だが、男の秘密も女の悩みも、小さくせこい(従って、小説に向いている)。

薄井も元はエリート銀行員だった。時代の波に乗り、鼻息荒い時代だってあった。しかし、出向先の平取締役に落ち着いた今は、仕事の充実より、保身の方に目が向いている。彼はすでに、会社員としての最終段階を迎えているからである。

うまく立ち回れば、常務、いや社長の目だってなきにしもあらず。そんな都合のいい夢が頭を過ぎった途端、薄井の老後の計画には、徐々に光が差してゆく。収入面や見栄だけでなく、仕事という言い訳さえ立てば、愛人と会い続けることがたやすくなるからである。

そもそも、薄井は調子がよすぎた。銀行員時代の部下、田村美優樹と10年以上の愛人関係が続いているのに、妻にはばれていない。

だから、最近は週に二度も、美優樹のマンションに転がり込んでいる。そこでは、置きっ放しのジャージに着替えて、エッチDVDに耽溺する日々だ。そのためか、美優樹には、少し疎まれ気味なのが気になる。

晩節汚すべし

緩みは心にも及んでいる。薄井は美優樹の前で、二世帯住宅の計画を滔々と喋ってしまった。当然のことながら、美優樹は怒り狂って、妻という立場が「既得権」なら、自分だって一千万円欲しいと言いだす始末だ。

薄井の家庭はすでに妻の王国で、薄井の居場所はない。自分の居場所は、むしろ美優樹のマンションにしかないのに、怒る美優樹は、薄井がそこに留まることを許してくれそうもない。

どうしたらいいのか。迷う薄井の前に、新たな女が現れた。会長秘書の朝川真奈である。

朝川は美優樹より八歳も若く、しかも薄井の好意に気付いているのか、気のある素振りも見せる。

妻にばれることなく家庭は安泰のままで、美優樹とは楽しい性生活を続けて、朝川真奈と心躍るような恋愛をすることは可能だろうか。薄井の欲はぱんぱんに膨らんで、何とかバランスを取ろうとする。

そこに薄井の秘密をすべてわかっているかのような、女占い師の長峰が登場する。妻が連れてきた長峰は、薄井の欲望と身勝手の水先案内人でもある。薄井は、自分の破滅がすぐそこにあることを自認しながら、前に進もうとするのだが、悪人になれない薄井の限界も、長峰に掌握されている。

最近は、不倫が大罪を犯したかのように誹られる時代になった。虚構とはいえ、薄井という男も、批判に晒されることだろう。薄井が落魄しようが、誰も同情しないのはわかっている。

「晩節を汚す」という言葉がある。歳を取ってから馬鹿をやって、これまでの実績や評判を地に落とすことを指す語だが、大いに晩節汚すべし、である。人間は決して、悟ったふりなどをしてはいけない。つまらぬ人間になるよりは、馬鹿にされる方がマシだ。だから、私は秘密だらけの薄井が大好きなのだ。

桐野 夏生(きりの・なつお)
小説家。1951年金沢市生れ。成蹊大学卒。1993年『顔に降りかかる雨』で江戸川乱歩賞、1998年『OUT』で日本推理作家協会賞、1999年『柔らかな頬』で直木賞、2003年『グロテスク』で泉鏡花文学賞、2004年『残虐記』で柴田錬三郎賞、2005年『魂萌え!』で婦人公論文芸賞、2008年『東京島』で谷崎潤一郎賞、2009年『女神記』で紫式部文学賞、2010年『ナニカアル』で島清恋愛文学賞、2011年同作で読売文学賞を受賞した。近著に『ハピネス』『だから荒野』『夜また夜の深い夜』『奴隷小説』など多数ある。

読書人の雑誌「本」2016年9月号より