週刊現代 企業・経営
一代で年商500億を超えた「新しい億万長者」たちの仕事哲学
急成長のヒミツを徹底調査!
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才能と努力と情熱、そして運。どれか一つが欠けても、「年商500億円」の壁は容易に乗り越えられない。それを一代で成し遂げた億万長者たちの見識と金銭哲学、創業者ならではの悩みに迫る——。

夢を追って脱サラした営業マン

一代で年商637億円の戸建て分譲会社を築き上げた『三栄建築設計』の小池信三社長(48歳)は、大手住宅販売会社のトップ営業マンの地位をいとも簡単に捨てた。'93年、25歳の時だった。

「'90年、平成バブルの真っ只中に、大手不動産仲介会社『三井のリハウス』(三井不動産リアルティ)に入社しました。

地元・福島の商業高校を卒業した後、上京して浪人生活を送っていましたが、将来何をしたいという目標があるわけでもなく、進学を断念してしまったんです。そこで学歴とは関係なく、実力で評価してもらえる仕事に就こうと、不動産業界に興味を抱きました。

当時は大手でも学歴不問で採用していましたし、宅地建物取引主任者(現・宅地建物取引士)の資格を取って、大手不動産仲介会社に入社しました。

『三井のリハウス』を選んだのは、トップセールスマンになって支店長の推薦が得られれば、海外勤務ができたからです。外国で働くことに憧れていたんです」

小池社長は、入社してすぐに頭角を現す。初年度から営業成績がトップになり、その後もトップの成績を維持し続ける。

「他の営業マンとの違いは、普通はお客様に住宅を売るだけのところ、私はお客様が住んでいる家の売却と新居の購入のどちらもおこなっていたことです。これだとダブルで手数料を稼げますから、営業成績も上がっていきました。

20歳そこそこで年収は1500万円くらいあったでしょうか。でも、バブルが崩壊して、会社が海外事業からの撤退を決めたので、会社を辞めることにしました」

小池社長には疑問に思っていることがあった。東京23区内の戸建てで1億円もの物件でも、住宅に個性がなく、あまりに安普請であることだ。個性的な分譲住宅がないのであれば、自分でつくって売ろう。しかも一般のサラリーマンが購入できる価格で。

小池社長は起業の道を歩み始めた。

「建売住宅をつくっている会社の場合、ほとんどがコスト削減を重要視しているので、間取りやデザインをパターン化しています。手間ひまがかからず、建材を大量購入できるので、コストを抑えられるからです。

でもそれがはたして、お客様のニーズに合っているのか。住宅はお客様の『人生の夢』です。それが他人と同じようなものでいいのか。私たちは『同じ家は、つくらない。』を信条にオンリーワンの家づくりを続けてきました」

三栄建築設計の業績は創業以来ずっと右肩上がりで、リーマン・ショック後の厳しい時期でも増収増益。'12年には東証1部に上場を果たす。その約2年後、会社を危機が襲う。小池社長が株価操縦の疑いで、証券取引等監視委員会から強制調査を受けたのだ。

「結局、株価操縦はなかったという結果になりました。ただ、その疑いだけで金融機関からの借り入れがストップしてしまいました。

調査は10ヵ月くらい続き、とても辛かったですが、うれしかったのは、社長が逮捕されるかもしれない事態になっても辞める社員がいなかったことですね。

資金繰りは厳しかったのですが、増収増益こそストップしたものの売上高はほとんど落ちませんでした。そこで逆に銀行からの借り入れがなくてもやっていけそうだと考え、無借金経営を目指すようになったのです」

これからは海外進出を本格化させると、小池社長は言う。ついに長年の夢が実現するのだ。

「個性的な家づくりを、アジアなどの海外にも展開していく予定です。2年前には米ロサンゼルスに支店を開きましたが、個性を大切にする米国では当たり前のように受け入れられています。

稼いだカネの使い途ですか? 庶民のための家をつくっているという自負もあって、庶民感覚をもっていなければならないと思っています。高価な時計が欲しいわけでもありませんし、あまりおカネを使っていません」

中卒だからできたこと

本誌は今回、東京商工リサーチの協力を得て、一代で年商500億円以上の企業を創業した社長を選別。上位50社に取材を申し込んだ。

一覧を見ると、ソニーやホンダ、任天堂など、すでに世界に羽ばたいた日本企業とは違う、「新しい創業者たち」がずらりと並ぶ。アパレルや量販店、飲食店やドラッグストア、アミューズメント業界など、私たち消費者から近い業態の創業社長が多いのが特徴だ。

巨万の富を築いた経営者は何を考え、日本社会を見て何を思うのか。取材に応じた実業家たちの本音を紹介しよう。

愛知県発祥の中古車販売会社『ネクステージ』の広田靖治社長(43歳)も小池社長同様、大学を出ていない。それどころか、定時制高校も中退した中卒経営者だ。

「よく不良にならなかったなと言われますが、家庭の事情により中学2年生からアルバイトを始め、おカネを稼ぐ楽しさを知って夢中になりました。仕事と学業でどちらが楽しいかといえば、その頃は働くほうが圧倒的に楽しかったのです。

今は学歴や教育の差が格差を拡大させていると言われますが、それを解消するには、若い人は早い段階から働くことを勧めたいですね」

広田社長はガス給湯機器の訪問販売の会社に入り、必死に営業をすることでトップセールスマンに。その頃、趣味の車好きが高じて、自動車販売に興味を持つ。

「当時の若者は、私も含めて自動車に多くのおカネをかけていました。仕事の空き時間にも中古車販売店を訪れていたのですが、そんな中、ある思いが強くなった。販売店の営業マンはなぜ、こんなにも仕事に対してやる気がないのか、ということです。

訪問販売の自分は何軒もドアを叩いても顔さえ見てもらえないことがほとんどなのに、彼らはお客様が勝手に来てくれる。なぜ、もっと熱心に営業しないのか。

これを見て自分ならもっと売れると確信し、自分で会社を始めることにしました。学歴がないので、メーカー系の販売店には採用してもらえませんでしたからね」

'96年に23歳で1号店をオープンさせ、「専門性」を売りに業績を伸ばす。たとえば、創業当初は「ボルボ」の専門店から始めたという。メジャーな車種ではないが、それゆえに専門店はなく、一方でマニアが存在するからだ。資金力がない中で、他店と差別化を図るにはそれが最適だった。

「最大のピンチは11年ほど前に訪れました。多店舗展開が進む中で、弊社のビジネスモデルを真似する会社も出てくる。その結果、業績が頭打ちになってしまったんです。

そこでビジネスモデルを大転換しました。通常、中古車販売会社はオークションから100万円で仕入れた車を150万円で売ることで利益を出していました。弊社は100万円で仕入れた車を、そのまま100万円で売ることにしたのです。

どこで利益を出すか。それは販売時に付随して購入していただくアクセサリーやパーツなどです。

仕入れはオークションですから、会社の規模が大きくなっても、それによるメリットはありません。しかし、アクセサリーやパーツは大量に売れば売るほど、仕入れ原価が安くなり、規模のメリットが享受できるのです」

結果はすぐに出た。車の価格が下がったことで来店者数が3倍に増えた。車本体の価格が安くなった分、購入客がオプションをつけてくれるため、業績は一気に拡大し、今につながっている。

「あまりに安く売っていることから、周辺の同業者からは嫌がらせを受けたこともありました。ただ、私たちは違法なことをしているわけではないし、むしろ中古車業界の不透明な部分をなくしたいと思ってこのやり方をしている。

そのことが次第に理解され、北海道から熊本まで全国62店舗に広がり、年商1000億円を目指せるところまできました」

成功を収めた今も、広田社長は満足することはない。根底にはこんな「金銭哲学」がある。

「おカネを稼ぐことは人一倍好きですが、使うことにはあまり興味がありません。むしろ事業を大きくして収益を拡大させることが一番の欲求です。稼ぐことの楽しさを知ってしまったら、買い物で得られる喜びなど比べ物になりませんよ。

強いて言えば、将来的には社会のためになる事業をしたいと考えています。母子家庭の貧困が社会問題になっていますから、そこで役立つ活動ができればいいですね。

会社を経営する中で、国に対する義務を果たせるのが、納税です。節税に熱心な経営者を否定するつもりはありませんが、決められた方法で正直に対処するべきだと考えています。節税で利益を残すより、もっと事業を大きくして利益を増やすほうが気持ちいいではないですか」

常識にとらわれない経営

福井県坂井市に本社を構えるディスカウント店「PLANT」の三ッ田勝規社長(74歳)も金銭には恬淡としている。

同社はスーパーマーケットとホームセンターの良さをあわせ持つ「スーパーセンター」を標榜し、北陸を中心に19店舗を展開する東証1部上場企業だ。

「妻と2人でやっていた頃は、問屋に払うカネがなく、銀行も貸してくれずに困ったこともありますが、おカネへの執着はありません。

そもそも私は1000万円以上の現金をいまだに見たことがないのです。本部と各店舗には金庫がありますが、興味がないので、中を覗いたこともない。

唯一の趣味は車の運転ですかね。米最大の小売業『ウォルマート』の視察も兼ねて、今も毎年のようにレンタカーで米国やカナダの田舎町を一人で駆け巡っています。3週間ほどの日程で、田舎を1万キロ走ります。通訳もつけず、ナビは使わずに道路地図を見ながら見知らぬ土地を運転する——その緊張感が堪らないんです。

妻は止めてくれと言うけれど、これだけは止められません」

成功した経営者の多くは、「仕事が趣味」と口を揃える。三ッ田社長と同じく、北陸地方に本拠を置くドラッグストア「ゲンキー」の藤永賢一社長(53歳)もご多分に漏れず「仕事の虫」だ。

「東京の小さなスーパーでアルバイトをしていた時、そこの店長から勉強会に行ってみないかと勧められたんです。それがイトーヨーカ堂やイオンを指導し、チェーンストアの神様と呼ばれた経営コンサルタント・渥美俊一先生のゼミでした。

自分でもやれるんじゃないかと思い、東京・赤坂にあったドラッグストアに就職したんです。そのままバイトを続けていましたので、夜中はスーパーで昼間はドラッグストアという生活。睡眠時間は2時間で、一週間でも14時間しか寝ていない、そんな生活でした」

藤永社長は26歳で地元の福井県坂井市に戻り、ドラッグストアを開業。当時は福井にドラッグストアなどなく、市販薬は定価で売られていた。そこに東京の価格を持ち込んだため、なぜこんなに安いのかと評判になり、業績は拡大していく。

目下も過去最高益を更新するなど、業績は好調だ。ただ、藤永社長は日本社会の先行きには若干の不安を感じている。

「日本経済は成熟してきていますから、再びベンチャー魂がよみがえることは難しいと思います。国家もある時は若々しいですが、だんだんと年をとって大人になるように、成熟すると人にやさしくなったり、文化的になったりするわけで、経済的には伸びが鈍化します。

この流れは当面変わらないでしょう。再び高度成長期に戻れるかというと、そんな処方箋はないと思います。何とかやりくりするしかないという時代に入っているのではないでしょうか」

劇的かつ安定的な成長が見込めない時代に、自らが一代で築いた事業をどう次代に引き渡すか。「後編」では、創業者が共通して抱える課題に迫る。

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「週刊現代」2016年9月3日号より