高校野球は日本の「神事」だと考えると、あの不可解さも腑に落ちる

聖地甲子園・女人禁制・坊主全力疾走
堀井 憲一郎 プロフィール
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ただ、その思念をおおっぴらに表明することはなかった。ひたすら強くおもいつづけていただけである。そんなことをしていると、思念は底に深くながれ、やがて不思議な精神の形となって所属する人たちを縛していく。

いつのころからか、ふしぎな宗教的様相を帯びることになった。

そんな不思議な感覚を、すべての人が共有できるわけがない。

そもそも職業野球で使われるときは、甲子園球場で女性タレントが始球式をやっている。そこを女人禁制の聖地だと言われても、理解できない。両者にはおおきな距離がある。

言語化できない「日本的な精神」

宗教的禁忌として、女人禁制の場所があるのは、わかる。

相撲節会の土俵に、やはり女性があがらないほうがいい、とわたしはおもう。

相撲節会は、きちんと宗教的行事である。しかも裸体での神への奉納である。男女がしっかり分けられてしかるべきだろう。

またふつうの祭りでも男と女は分けたほうがいい。祭りでの女人禁制というのは「祭りくらい、男がかっこいいところを見せる場にしてくれ、女はただ見る側にいて欲しい」というわがままでしかない。わがままを言う男を正論で諭されても困る。希望が通せる余裕があるのなら、男として、ぜひ通してもらいたい。

でも、甲子園は、どっちでもない。

宗教活動ではないし、村の祭りでもない。ただのスポーツ大会である。スポーツルール以外の禁忌がある意味がわからないし、それを説明しない運営側のおもいも理解の向こうにある。

 

甲子園が宗教的な聖地だ、という説明は「見立て遊び」としてはおもしろいが、みんなが共感できるわけではないだろう。

そもそも、高校野球大会運営側は、この深い部分を言語化していない。だから「体力に劣る女子をケガさせたくない」というような、誰にも共感を得られないコメントを出してしまう。

ただ核心部分は言語化すると、おそろしく無意味なものになり、まったく説得力を持たない。だから説明するわけにはいかない。

日本的な精神の多くは、そういうものである。世界では通用しないだろうが、日本では通用するので、それでいいのである。

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