高校野球は日本の「神事」だと考えると、あの不可解さも腑に落ちる

聖地甲子園・女人禁制・坊主全力疾走
堀井 憲一郎 プロフィール
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夏の高校野球は「神事」っぽい

いまも残る「女人禁制」のほとんどは宗教的禁忌である。

宗教は、すごく古い時代に始まり現代に続いているため「身体差の大きかった時代のシステム」をいまに伝えている。

「お山」などの修験場の女人禁制は、簡単に言ってしまえば「気が散るから女は入れるな」ということにすぎない。

存在しているだけで気が散って修行に専念できないのは、それは女性の問題ではなく、男性の心持ちの問題なのだけれど、そういう正論が通じる場ではない。だから結界を結び、心乱す女人を入れないようにし、結界のなかで修行に励む。

もうひとつ「祭りの中心エリアへの女人禁制」がある。

祭りの大きな目的が「生殖を祝ぐこと」にあるのなら、祭りの現場では、男と女は、厳然と分けるしかない。しかも祭りを仕切るのが男の仕事であるかぎり、中心エリアは男子が取る。それだけのことである。(物成りのいい農耕社会では、ふつうの男の仕事は「祭りと狩りと戦争(喧嘩)」しかない。バカだとおもうが、実際そうなのだからしかたがない。)

「聖地としての甲子園」は、おそらく後者の「神の祝祭的な聖地」として意識されているようにおもう。

私がそうおもっているわけではなくて、大会運営側がそういう幻想を信じているのではないか、ということである。推測だが、あまりはずれてないとおもう。

なぜか「夏の高校野球」は、その存在じたいを「神事」めかしている。

神事の根本は「人を越えた存在への畏れ」である。この場合、神体そのものにはあまり意味がなく、それを畏れ敬い、有り難いとおもう、その心根のほうに意味がある。

夏の高校野球のご神体はおそらく「純粋なアマチュアリズム」と「自己犠牲を厭わない全体への奉仕」だろう。戦前日本にはとても馴染んでいた精神である。要諦は「いまが戦いの場であることを忘れるな」という精神であり、むかしはそこかしこにあったのだが、最近みかけなくなったので、ここに閉じ込められているようだ。

なぜ、ここが選ばれたのかはわからないが、明治日本の軍事的精神がいろんなものをすりぬけて21世紀まで伝えられている。おそらくアメリカ起源のベースボールに精神を埋め込んだために、戦後の混乱期をうまくすり抜けられたのだろう。

 

高校野球を神事と見立てると、選手は「供犠としての稚児」という存在になる。長髪が許されないのも、ユニフォームの基本色が白なのも「神への捧げ物だから」である。

死にそうな炎天下のもと、延々とプレイしつづける少年たちは、精進潔斎を済ませて、神へのお供えとしてプレイを続けているわけである。

神の前だから、緩慢なプレイは許されない。攻守交代も全力疾走。審判の判断への異義は許されない。監督やコーチという大人も、供犠の場へ出てくることは許されない。いつも「伝令」が走ってくる。

となれば、そこに女性が入れるわけがない。それは高校野球の問題ではなく「お祭り空間の禁忌」の問題である。

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