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『シン・ゴジラ』に覚えた“違和感”の正体〜繰り返し発露する日本人の「儚い願望」

野暮は承知であえて言う
辻田 真佐憲 プロフィール

「現実対虚構」ではなく「願望対虚構」

劇場などに貼りだされている『シン・ゴジラ』のポスターには、「現実(ニッポン)対虚構(ゴジラ)。」という印象的なキャッチコピーが書かれている。

実際には、ゴジラのような生命体が日本を襲うことなどありえない。たしかにこれは、まったくの虚構だ。だが、それと同じくらい、挙国一致し世界に実力を見せつける日本というのもまた虚構なのではないか。願望の発露といってもよい。

それゆえ、本作の内容を正確に反映するならば、「願望(ニッポン)対虚構(ゴジラ)。」とでもいうべきであろう。

『シン・ゴジラ』は、昨今の映画にありがちな無駄なシーンを削りに削ったとも評価される。たしかに、定番のお涙頂戴シーンや恋愛描写などはなく、たいへんテンポがよい。本作の秀逸さは散々語られているので改めていうまでもあるまい。

ただ、これはまた、われわれが「立派な指導者が出てくれば、日本はまだまだやれる」というストーリーを「無駄」と考えず、あまりにも自然に、快楽として受容しているということでもある。

「失われた20余年」にも似たようなストーリーはあまりにも繰り返されてきた。「決断できる政治家」に対する待望は久しい。「日本の底力」や「日本の実力」を謳歌するコンテンツも増え続けるばかりである。

だからこそ、野暮なことを承知のうえで、あえていわなければならない。知らず知らずのうちに、われわれはこのようなストーリーに影響されてはいないだろうか、と。

もし、『シン・ゴジラ』を観て、「立派な指導者が出てくれば、日本はまだまだやれる」と本当に思ったとすれば、そんなものは虚構のなかにとどめておかなければならない。「失われた20余年」に繰り返されてきたこうした願望の発露は、その実現可能性ではなく、その徹底的な不可能性を示していると考えるべきだ。

劇中に描かれる美しき挙国一致の「ニッポン」は、極彩色のキノコである。鑑賞する分には美しいかもしれないが、それを実際に口にすればひとは死ぬ。ありもしない「底力」とやらを信じて、身の丈に合わない行動を起こし、かえって損害を被るのはもうやめたいものである。

まもなく今年も8月15日の終戦記念日がおとずれる。

本当の非常時における政治家や官僚の言動は、そのなかにたくさん事例がある。『シン・ゴジラ』は名作ゆえに、様々な影響をわれわれに残すだろうが、その中和のためにも、実際の戦史について調べてみるのも悪くないのではないだろうか。

辻田 真佐憲(つじた・まさのり)
1984年大阪府生まれ。文筆家、近現代史研究者。慶應義塾大学文学部卒業。同大学大学院文学研究科を経て、現在、政治と文化・娯楽の関係を中心に執筆活動を行う。近刊『大本営発表』(幻冬舎新書)、そのほか単著に『たのしいプロパガンダ』(イースト新書Q)、『ふしぎな君が代』(幻冬舎新書)、『日本の軍歌 国民的音楽の歴史』(幻冬舎新書)、『愛国とレコード 幻の大名古屋軍歌とアサヒ蓄音器商会』(えにし書房)などがある。監修CDに『日本の軍歌アーカイブス』(ビクターエンタテインメント)、『出征兵士を送る歌 これが軍歌だ!』(キングレコード)、『みんな輪になれ 軍国音頭の世界』(ぐらもくらぶ)などがある。