「残っていたのは、ポルシェだけでした」日本人金メダリスト「全員」のその後【後編】
'84年ロサンゼルス~'12年ロンドン
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前編「東洋の魔女から昭和の三四郎まで」(gendai.ismedia.jp/articles/-/49416)
中編「世の中は甘くない」(gendai.ismedia.jp/articles/-/49417)

「金メダリスト」という重圧

「2011年から、時間貸し駐車場経営で有名な『パーク24』の柔道部監督です。43歳で一度だけ大会にも出場しましたが、選手兼任はそれっきりです。もう体が無理。今は監督業に専念しています」

こう語ったのは、1992年バルセロナ五輪で78kg級を制した吉田秀彦(46歳)だ。

柔道部選手は社員だが、吉田はプロ監督。実績を残せなければいつでもクビになる。覚悟を決められるのは、柔道界を飛び出し、格闘技の世界で体を張って稼いだからだ。

'96年アトランタ五輪は5位、'00年のシドニー五輪では3回戦敗退。'02年の全日本柔道選手権を最後に、畳の世界を一度離れ、所属の新日鉄も退社。総合格闘技のPRIDEへ、柔道家として参戦した。

「体を張って柔道の知名度をあげたかった。新日鉄に残れば安定した生活も送れましたが、夢を追う生活に懸けたんです」

PRIDEデビュー戦のギャラは推定1億円。高額ギャラをもらえる世界に身を置き、アマチュア意識が残る柔道界に、新風を吹かせたい思いは強くなった。

「社会人で柔道を続ける場合、今までは警視庁や特定の実業団チームしかなく、出身大学の道場に行っていた。だから私が監督になるなら、道場と寮を併設したところがいいと要望したら、都内に立派な施設を作っていただいた。プレッシャーを感じています」

同部から、リオデジャネイロ五輪に66kg級の海老沼匡と60kg級の髙藤直寿が出場した。