侍ジャパン小久保監督が万年最下位だったダイエーで胸に刻んだ中内オーナーの口癖
島地勝彦×小久保裕紀 【第2回】

撮影:立木義浩

第1回【 「野球をやめたい」と泣きじゃくった少年時代

シマジ 小学2年生のときから「ぼくはプロ野球の選手になるんだ」と思って、それをみんなに言いふらしていたというからには、エースの道をひた走りしてたんでしょうね。

小久保 はい。高学年になったころには、エースでキャプテンで4番を打っていました。小学校レベルですけど、地元では一応「ええやつがおるぞ」と言われていました。大会で何度も優勝したりして。

シマジ まさに、栴檀は双葉より芳しい、だったんですね。

小久保 ですから、プロ野球選手になるためには高校野球で活躍するのが近道だと思い、軟式から硬式に行くよりは、硬式から硬式のほうがいいということで、中学校の野球部には入らずに、ボーイズリーグのチームに入って精進しました。

シマジ そこにはほかからも優秀な選手が集まってきたんでしょうね。

小久保 そうです。でも、同期で新人部員が18人入ったんですが、卒業のころは2人しか残らなかったんです。監督があまりにも厳しすぎて16人も辞めてしまった。

シマジ へえ、2人きりですか。でも下級生はいたんでしょう。

小久保 もちろん下級生はいましたが、2年生は2人だけでした。ただ、ぼくの野球人生を振り返ってみると、基礎が出来たのはこの時期でしたね。中学生のときの練習量は半端じゃなかったですから。正直、もう一度学生時代をやり直せと言われても、あそこだけは飛び越えたいぐらい、きつかったです。

部員もいちばん少ないときは5人だったので、1年間試合が出来なかったんですが、ただただランニングや筋トレをさせられていました。下半身を強化するために、タイヤ引きじゃなくって、中腰で雑巾がけみたいにタイヤを押すんですよ。引くのは割と楽なんですが、押すのは本当にしんどい。雑草だらけだったグランドがみるみるうちに剥げてきれいになってしまいました。

それに比べれば、高校時代の練習なんて楽なもんでしたし、大学時代はもっともっと楽でしたね。でもあの監督の下で厳しい練習に耐えたからこそプロでも通用する下半身が作られたんだと思います。