「いのちを大切に」が根付かない日本社会~作家・多和田葉子が「いのちと戦争」を考える
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文/多和田葉子(作家)

「いのち」という言葉のあやうさ

「稲」という言葉は、「いのちの根」から来ているという説がある。ご飯をじっくり噛んでいると、いのちが生まれる。これは、なかなか歯ごたえがあるいのちだと思う。

またそれとは別に、「いのち」の「い」は「息吹く」という言葉から来ているという説もある。「自分で呼吸することが生きることなのだ」という意味なら納得がいくが、そうではなくて、どうやら「神々に息を吹き込まれて人間が生命を得る」という意味らしい。

そうなると、いのちは外から入れてもらった空気みたいで、もしかしたら自転車のタイヤみたいに簡単にパンクして空気が抜けてしまうこともあるのではないかと不安になる。実際、いのちは失われやすいものかもしれないのだ。

「いのち」という日本語には、英語の「ライフ」やドイツ語の「レーベン」と違って、「生き方」、「実生活」、「人生」という意味はない。生命体として機能しているのが「いのち」で、友情とか恋愛とか家庭とか職業など、生きることの具体的な内容はとりあえず含まれない。

そのへんにこの言葉のあやうさがあるような気がする。ライフならば、プライベートライフもビジネスライフもあるが、いのちは常に裸のまま公の場にさらされていて、名刺さえ持っていない。

「いのちを大切に」ということを日本の小学校ではよく教えられた。そのわりには、生きていること自体に意味があるのだという考え方が根付いていないようである。

「自分には生きている価値はないのだ」と思い込んで自ら命をたつ青少年も多いし、死刑制度も廃止されていない。欧米でも「Karoshi」と呼ばれる過労死も、いのちが仕事より大切であることを忘れ続けた結果、起こるのではないか。

日本ではむしろ、個々のいのちは共同体の利益のためには犠牲にされても仕方がない、という考え方の方がずっと深く浸透しているような気がする。だとすると、「基本的人権」は一体どうなるのか。