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やなぎみわの「移動舞台車」が横浜に残したもの~忘れられた歴史を掘り起こす、ある試みを追う
野外演劇『日輪の翼』
『日輪の翼』横浜公演(筆者撮影)

美術作家・やなぎみわによる野外演劇『日輪の翼』の横浜公演が終わり、先月の連載で紹介したやなぎの「移動舞台車」は、次の関西公演に向けて走り去った。

作品の力に圧倒され、二度にわたって観劇した筆者は、その魅力を伝えるべく記事を書き始めたが、自分の筆の遅さに焦燥するうちに、あっけなく千秋楽が終わってしまったわけだ。

演劇は、公演のたびにたくさんの人を雇い、場所を確保し、設備を調達して、じつに大掛かりなものを立ち上げるが、幕が降りればすべて解体してしまう。社会に流通する商品として形を残さない演劇の、そんな儚い残影を、文筆で捕らえるのは難しい。

だが、発生した途端に蒸発してしまう作品こそが、まさしく『日輪の翼』で、やなぎが目指したことではないか。そして、形を残さない「無形」のミディアム(表現媒体)である演劇は、じつはほかのミディアムとは根本的に異なる価値を持ち得るのではないか?

そう思えてならない筆者は、己の遅筆を悔やみながら、移動舞台車の後を追いかける。

形を残さない「声」という表現

90年代以降、主にその写真作品で知られてきたやなぎみわだが、近年になって演劇を発表し始める以前からも、じつは染織、リトグラフ、映像など、つねに多種多様なミディアムを駆使してきたと、先月の連載で書いた。そんな美術作家が、ここにきて、演劇という手法にどのような可能性を見出したのだろうか。

演劇の魅力を問われて、やなぎはあるインタビューでこう答えている。

「もちろん舞台装置や照明も大事なんですけど、演劇って突き詰めると声ですからね」

舞台装置や照明のほかにも、演者、戯曲、衣装など、キャリアとして演劇を追求してきた者なら真っ先に挙げそうな要素をすべて差し置いて、「声」と述べるのは、ミディアムの境界線を縦横無尽に駆けてきたやなぎ特有の回答である。

確かに、やなぎみわの演劇には「声」が欠かせない。